1970年代、南アフリカの黒人活動家スティーブ・ビコと黒人解放運動、同白人雑誌編集長ドナルド・ウッズの奮闘と友情を描いた物語。
後半は、ウッズの亡命逃避行サスペンスの構成となっている。
先日は、米黒人活動家のフレッド・ハンプトンを描いた「ユダ&ブラックメシア」を観たばかり。
しかし、自分の黒人解放運動や、アフリカとその民族の歴史の希薄さには驚くばかりだ。
実際、学生時代、アフリカの史書を読もうとしたときも、興味関心が遠すぎて、深めるに至らなかったことを覚えている。
自分は、学生時代は、「歴史」をテーマに読書を行っていたが、大学図書館でも、アフリカの「歴史書」のカテゴリ自体が比較的薄かった印象がある。
近年は各大学でも現れてきたようだが、教授陣にも黒人の教員はいなかった気がする。国際系の学部だったにも関わらず。
このような差別・暴力の歴史に無知なのは、グローバル化の浸透した今日では特に、「恥ずべき」かもしれない。
が、同時に、自分自身はその「距離感の遠さ」も忘れてはならない、とも考えている。
どういうことか。
当然ながら、「無関心」「無関係」のままでいようとか、いても良いわけではない。
だが、日本人とか日本社会にとっての、「地理的・精神的遠さ」を無視したまま「理解を深めよう」という呼びかけをしようとした時の難しさや反発感を考慮すべき、と考えるのだ。
例えば、米音楽とかの歴史に詳しい人だと、米国社会内の差別の歴史に敏感で、深い知識を持つ人もいる。
しかし、そうした人々と、一般の日本の人々の間の、黒色人種やアフリカの歴史の知識や興味関心の間には、大きな格差が存在する。
それを埋め合わせて、人々の歴史的知識や関心を高めることは、日本社会では、必ずしも簡単とは言い難い、ということを問題にしたいのだ。
本作では、南ア政府や警察当局の、黒人社会への公然たる暴力的弾圧が衝撃的に描かれている。
しかしそれだけではなく、視聴者の無知に潜む差別構造を、(演説や対話、回想を通じた)ビコの理知的なロジックによって底の底まで明らかに抉り出す、という組み立てにもなっている。
近年の米国ムーブメントの中でもうたわれた「Black is beautiful」というのは、ビコの唱えた言葉だという。
Black is beautiful - Wikipedia
そこで初めて、自分も以前まで使っていた「ブラック企業」の「ブラック」が、なぜ倫理的に許されないかを自覚したのだ。
しかし、それは、こうして歴史を知らなければ、絶対に自覚できない事柄であるのも間違いないことでもある。
もう一つ思い出したことがあった。
高校時代の英リーディングの授業で、戦後米国社会で、とある黒人筆者が書いた文章の趣旨を理解できなかったことだ(タイトルや正確な中身等は記憶していない)。
大学進学する際に、彼は「自分が黒人であること以外にはない」という説明を関係者にしたということだったのが、自分には「???」でまるで理解できず、「それしか理由がないってなんで?意識低くない?」などとすら感じていたのだ。
子ども時代も、例えば「十五少年漂流記」が大好きでよく読んでいたが、そこにも黒人奴隷差別が描かれている。
また、数年前、かつて小説・映画の「古典的名作」とされた「風と共に去りぬ」は、もはや倫理的に許容されない、といったことが論じられたこともあった。
しかし、そうした文脈に対して、どのように理解を加えて、認識を更新していく・いけるのか。
ネット情報の断片的な知識や情報では、表面的なことがら(「現代では〇〇という表現は禁止・NG」etc.)しか掬い取りづらいのではなかろうか。
構造的な事柄は、構造的な知識と興味関心によってしか理解し深めていけないのではないか。
差別・暴力をなくしていかなくてはならぬのは当然として、しかしそれを、実社会においてどのように進めていけるのか。
ビコの理知とメッセージと雄姿を込めた本作は、重要な示唆を与えてくれている。