若松プロダクション制作。
PFLP(パレスチナ解放人民戦線)のプロパガンダ映画。
勘違いというか、最初は「日本赤軍のドキュメンタリー映画」のつもりでレンタルしてしまった。
率直に「キツイな」というのが最初の感想。
「プロパガンダ映画」という形式のキツさだ。
70分なのでラクかと思ったら、情報量のせいで体感はもっとだった。
映像も音声も、言葉の羅列で脳が疲れる。それが「洗脳」に連なっていくのだろうが。
(「洗脳される革命兵士」に対して)変な連想をしたのは、日本で「過労死」していく労働者のことだ。
彼らは、異常な働き方やその環境を自ら疑えず、時に周囲からの注意やアドバイスがあっても、結果その働き方から降りられず「死」を選んでいく。
脳には「余計なことを考える」スキマがないと、「自由」というものが存在し得ない。
日本の過剰労働環境というのは、労働者に「自由」のスキを与えようとしないところに特色があったのではないか。
閑話休題。
自分は最近、初めてシオニズムの歴史について読んだ。ユダヤやユダヤ人の歴史、とりわけ近代史について、世界史で学んだことや、ホロコースト以外についてあまり知らないと思ったからだ。
赤軍派については、映画「実録・連合赤軍」(若松監督)、「突入せよ!あさま山荘事件」などは観たのと、また割と最近、マンガ「レッド」(山本直樹)も読んだ。
だから、空気感や多少の情報は得ている。
が、「心理的・時間的遠さ」は簡単には埋まらないし、また自ら埋めようとも思わない・その必要性もさしてない、というのが実際のところだ。
ただ、映画のプロパガンダの中で、現在イスラエルが遂行しているジェノサイドの背景が分かるものがあった。(だからイスラエルは「ジェノサイドではない」と認識し主張しているのだろう)
「革命兵士は、闘う生活の兵士である。彼らに都市ゲリラとゲリラ戦争の区別はない」
というものだ。
ゲリラ兵やその武器が一般人民やその生活にまぎれているとしたら、その「殲滅戦」を展開するよりない、というのは軍事的現実として認識される筈だ。
(他にも、ライラ・カリド - Wikipedia
という、当時有名になったという女性ハイジャック犯も登場して知った)
最近、「東アジア反日武装戦線」の桐島聡が、病死直前に自らの正体を明らかにしたというのが報じられた。
自分はその団体名や桐島の固有名詞自体はよく知らなかったが、連続企業爆破事件のことは聞いたことはあった。
また、映画「バトルロワイヤル」にも出てくる「腹腹時計」が、この団体由来だったのは、今回のことがきっかけで知った。
自分が今回のガザ危機で気づいたのは、日本メディアの意外な善戦だ。
欧米メディアが平気でイスラエル側に立っているのには慄然としたのだが、そうしたメディア状況では、必ずしもイスラエル側に立たない日本メディアは「民主主義」(?)陣営としては、決して無視できない価値を持っていると言える。
キャスターの重信メイが重信房子の娘なのは有名だが、それ以外でも、「パレスチナへの社会的・知的関心」こそ、日本赤軍が唯一日本社会に遺した、「正の遺産」ではないか、と気づいたのだ。
無論、日本も中東に石油利権があるが、それだけでこの確固たる関心の存在は説明出来ないと思う。
つい最近、別垢ブログに、安保法制騒動時のシールズについてのドキュメンタリーの感想を書いた。
映画「わたしの自由について〜SEALDs2015」 - seijishakaishiのブログ
自分は日本の「護憲派」に対し、厳しい態度を取っている。
なぜか。彼らは世界で、何一つ「結果を出してない」からだ。
紛争解決も、他国の9条輸出による軍備・戦争放棄も、何一つ、である。
それどころか、彼らは日本から出ようともせず日本が大好きだし、政府に丸がかり(「自分ではなく政府に全部やって欲しい」)という「国家主義者」なのだ。
彼らはそうしたことに無自覚であるが。
しかし一方で自分はまた、(日米同盟の歴史的役割自体は評価するにせよ)「反米」でもある。
要は、「観念論的平和主義」者が嫌いなのだ。
だが、だとすれば、一体「俺自身」(軍人でも、外交官や政治家でもない)に、それ以外で何ができるというのか。
それは鋭く問われねばならない。
自分が「日本赤軍」に対してもう一つ気付いたのは、
・「日本の戦後左翼内部の、護憲派の完全なアンチテーゼ」
であるということだ。
「武装蜂起」という方法論においても、また「実際に海外で行動する」という点においても。
はっきり言えるのは、「行動した」という点で、(結果ではないにせよ)明らかに客観的な「過程」は遺しているし、発信効果も与えている。
一貫した「自慰」に終始している(引きこもり的)「護憲派」とは真反対の位置にある。
といって、じゃあ自分が赤軍を肯定したいか・できるかと言えばそうではない。
自分にも「戦後平和主義」の流れは当然あるからだ。
だとすれば、「自分は一体、パレスチナに何ができる?」ということなのだ。
ほざいてるだけなら、唾棄している「護憲派」の連中と何ら変わりないではないか。
「叩けば自分側が正義になる」というその振舞いすらも。
しかし、スキルも実績もある「国境なき医師団」のような存在すら、現地で活動が出来ず叩き出されてしまう。
また、「無駄死に」していい訳でもしたい訳でもない。
やれるとしたなら、ICJ(国際司法裁判所)のジェノサイドの判定が、本当に「適正に・公正に」行われるのだろうか、本当に「国際法」とか「国際秩序」というものがあり得るのか、ウォッチするくらいのことしか、今のところ思いつかない。
日本赤軍の手段は、軍事ではあるが、(「現代の日本国内に向けて」と異なり)「間違っていた」とも言い切りにくい。
(言い切っていたら、「今、自分は」何もパレスチナのことを知らないかもしれないし、パレスチナ人民に思いを致してないかもしれない)
今回のガザ危機の発端が、パレスチナが世界に埋没しゆくことへの、ハマスの絶望的蜂起だったように。
もちろん、赤軍の後に付いていったものはいないし、その必要もなかったろう。
しかし、「観念論的」で、世界に対して何の結果も残してない「護憲論」者に比べたなら、その行動力においても先駆性においても、「壮とすべき」なのは、どうしても赤軍のほうだという気がしてならないのだ。