新年一発目は少し前の映画(原題は「Maria Full of Grace」)。
昔テレビで井筒監督がレビューしていて印象的で、ずっと記憶に残っていた。
地元で職場でも家族ともうまくいかず、男友達との遊びで身ごもって金に詰まったコロンビアの女の子マリアが、麻薬の運び屋になってしまう話。
米国入管でも一発で係官に目的を見抜かれるが、妊娠ゆえにX線検査を免れ、九死に一生を得た。
運び屋現場ってこうなのか、という物珍しさ(胃に入れる麻薬の粒を袋詰めする器械で詰めていく)はあったものの、ストーリー全体には何となく既視感があるな、と思ったら、日本でいわゆる「闇バイト」に入り込む若者のストーリーにそっくりなのだ。
標題邦訳の「光」には、新しい命と、「米国」という2つの意味が込められているだろう。
ここにも、現代と重ね合わせて、苦い苦しい現実を思い知らされてしまう。
「米国」に「光」が感じられたのは、米国に「余裕」感があったからに他ならない。
トランプ登場前後の背景はどうか。
米国に余裕がなくなり、特にトランプからはメキシコ系移民が名指しで指弾され、文字通り壁で閉ざされることになった。
現代のアメリカでは、スペイン語が圧するほど、ヒスパニック移民の比率が高まったと聞く。
「人種のるつぼ」と言われた米国が、なぜ今や「分断」に苦しめられているのか。
そして、日本の「闇バイト」には一切の「光」はない。
目先のカネや狭い人間関係に踊らされる末端は、簡単に使い捨てられ人生を棒に振る。
日本の振り込め詐欺の現場も、グローバル化していることも知られた。
詐欺グループの拠点が東南アジアにあり、それらが摘発された事例は記憶に新しい。
彼らはどんな気分で海外で捕まり帰国したろうか。また地元民はどう眺めていたろうか。
「コロンビアではとても子どもは育てられない。」
映画内でのシンプルなセリフもまた、地味にズシリと響いた。
南米エクアドルでは、麻薬王が脱獄して国内に非常事態宣言が発されたという。
「なんでそんなことになるわけ?」と思うが、「破綻国家」の典型だろう。
「グローバル化」は、貧困、アンダーグラウンド、犯罪もグローバルに流布・拡張していく。
その先に果たして「光」はあるのか。