creconte’s blog

映画感想多め。本・マンガ・ドラマetc.扱う予定。歴史・政治・社会・サスペンス・アングラ・官能等

春三月縊り残され花に舞う

表題の句は、大杉栄が、大逆事件での幸徳刑死を受けて遺した句という。

「エロス+虐殺」(1970)を観たのだが、エンディングで掲げられていたのがこの句で、この映画自体より、遥かに衝撃的だったので、タイトルに借りさせてもらった。

 

映画自体は、「前衛的」とでもいうのか、「日蔭茶屋事件」(大杉栄が、伊藤野枝・神近市子との三角関係を巡り、神近に刺されて重傷を負った事件)に対して、(「事実的」ではなく)いわば「芸術的」な解釈を行おうとしているのだと思う。

今(=当時、1970年)の若者の男女2人の時空間に野枝が行き交ってきてインタビューを行うなど、映像的には妙に「実験的」な匂いがしてくる。

映画というよりは、舞台向けの設定という印象もある。

 

監督の吉田喜重は「松竹ヌーヴェルバーグ」出身らしい。

ヌーヴェルヴァーグ - Wikipedia

本作で見られる表現手法は「ヌーヴェルバーグ」的なものかもしれない。

だとしたら、まるで興味が持てないが。笑

確かに「実存主義」的ニュアンスが漂ってくるのだが、今の視点からすると、「その頃の文学的厨二病」以外の何物でもなく安っぽい薄っぺらさしか感じない。

ただ、エロティックな美しさを表現したい、との意図は伝わってくるのだが、しかし、大杉虐殺事件をそこに塗り込めてしまっていいの?という率直な疑問も生じてくる。

一方、主演の細川俊之岡田茉莉子双方のビジュアルの美しさ自体が出色であり、それ自体で「持つ」映画である、という特性も忘れてはなるまい。

 

映画自体には辛辣な批評を行わざるを得ないが、素材である大杉たちに対しては、いくつか思うところもあったので、その部分を書き記しておこう。

自分は、さほど大杉は評価してない。

が、あの時代としては、大杉のような存在を生み出すのが関の山だったろう、との感慨もある。

また、幸徳を憎み殺したし、大杉も最期は虐殺したとはいえ、大杉を曲がりなりにもシャバで歩かせていた日本の天皇制政治社会の「限界ある度量」というものも。

 

自分が本作を観ようと思ったのは、どちらかというと、神近市子に対する興味がきっかけだった。

神近市子 - Wikipedia

神近は女性記者であり、大杉刺傷で服役するものの、戦後は政治家として活躍した「女傑」で、本作「エロス+虐殺」上映差し止めを提訴したものの棄却されたという。

 

権威主義社会では、「科学性」のはたらく余地が狭まり、自由の許されるのが「文学」とか「芸術」の世界に次第に絞られていく。

直接的な批判は政治的・社会的に許されず、アナロジーとか象徴性程度の表現しかできなくなるからだ。

大杉栄の「天才性」というのはそうした時代や社会の産物に過ぎないし、日本のアナーキズムというのも、所詮その限定条件を受けて存在したものでしかない。

 

ただ、事実関係そのものや、当時の人間関係などについては、知らないことが殆どというのも確かだ。

甘粕事件で虐殺された6才の子ども(橘宗一)は「大杉の甥」だったのに対し、大杉や、伊藤野枝の子は戦後まで生きていた(野枝と辻潤の子は詩人・画家だった)者がいた。また大杉は、妻堀保子との関係を通じて、堺利彦との姻戚関係(妻どうしが姉妹)にも当たる。

甘粕事件 - Wikipedia

辻まこと - Wikipedia

堀保子 - Wikipedia

この辺りは、左翼にとっては恐らく常識に属するのかもしれないが、どのような人間関係があったのかを知るだけでも堪らなく楽しいのも確かだ。

 

カルラのリスト(2006)

ICTY(旧ユーゴスラビア特別法廷)検察官カルラ・デル・ポンテが、ユーゴスラビア紛争での民族浄化に関わった戦争犯罪者の摘発・告発すべく国際社会で苦闘する様子を追ったドキュメンタリー。

スイスのドキュメンタリー番組のもようで、カルラに対する番組のインタビューはフランス語で行われているが、カルラの会見や、各種国際会議などでは英語が用いられている。

 

Carla Del Ponte - Wikipedia

International Criminal Tribunal for the former Yugoslavia - Wikipedia

 

近年は、旧ユーゴスラビアでもクロアチアはサッカー強豪国でもあり、また風光明媚で日本人にも人気の観光スポットになっているようだ。

が、その歴史は依然縁遠いものには違いない。

ミロシェヴィッチICCで裁かれたことこそ知っていたが、具体的な経過は知らなかったし、今回のドキュメンタリー内で、戦犯として告発されている以下の人物については当然知らなかった。

 

ドキュメンタリー時はちょうどゴトヴィナは逮捕されたもののその後裁判を経て釈放、カラジッチとムラジッチは逮捕・裁判の末、終身刑となったようである。

経過については今後もう少し詳しく追ってみたい。

 

スロボダン・ミロシェヴィッチ - Wikipedia

Radovan Karadžić - Wikipedia

Ratko Mladić - Wikipedia

Ante Gotovina - Wikipedia

 

時おりしも、ちょうどICC所長に日本人の赤根智子さんが就任したというニュースが駆け巡った。

通常なら喜ぶべきところかもしれないが、ウクライナ紛争とガザ危機、また目前に迫った台湾危機という前途多難の最悪の国際環境下では、むしろ貧乏クジを引かされたのでは、と勘繰ってしまう。

 

国際法は重視すべきだが、国際法には、法自体のあり方にも、その実行のあり方にも様々な限界や制約がある。

そのことを、このドキュメンタリーは存分に教えてくれている。

国際刑事法・刑事裁判とはいっても、その履行は、結局は主権国家のパワーゲームの狭間に存在するものでしかない。

それでも法は法であり、カルラを初めとするICCスタッフはその法順守のために関係各国を巡り、国際社会にアピールしつつ苦闘するし、また民族浄化の犠牲者遺族たちは、「正義」が行われることを望んでもいる。

 

しかし個人的にはやはり、その「限界・制約」面に目を奪われざるを得ない。

自分は、9.11テロを受けたアフガン侵攻でもイラク戦争でも、無辜の民衆の命が米軍の攻撃で奪われる様子を、拳を震わせながら見ていたし、それで「なんでアメリカの側は裁かれないわけ?」と強い疑念に支配されていた。

法を執行するには強制力が必要なのは言うまでもない。

だが、実際には、国際社会の「絶対的強者」への法執行主体は存在しないのである。

その法のどこに「正義」があるというのか?

結局は、中小諸国のパワーゲームに部分的に介入できるだけに過ぎない。

それでも「ないよりマシ」かもしれないが。

 

もう一つは、「欧米」や「日本」は、「法治主義」とか「法の支配」を主張する資格があるのか?という部分だ。

これも「比較論において、中露・北朝鮮よりはマシ」というに過ぎぬのではないのか。

どうもその「大義の主張」に対する自己欺瞞性への疑念や不信感が拭いきれない。

 

第1次大戦後の国際社会(ヴェルサイユ体制)は、大戦の反省の上に立って構築されたが、結局は第2次大戦を押し止めることは出来なかった。

戦間期」の期間は、その時よりは長かったが、結局はまた、殆ど同じことを繰り返している。

人間とか人間社会の「進歩」というのは容易ではない、というより不可能であるということを、歴史は厳然と示してくれているのだ。

 

 

雨あがる(2000)

黒澤第3弾。

山本周五郎原作に黒澤が遺していた脚本や構想を、助監督小泉堯史が完成させた、黒澤の遺作。

雨あがる - Wikipedia

 

長雨で川止めされている長屋に雨宿りする人々と、妻と浪々の身だが謎の手練れ、ささくれ立つ民草たちにも何くれとなく心配りを行う武士と、ひょんな出会いからその藩の剣術指南役に招かれる様子を、人情味と可笑しみを込めて描く。

主人公の寺尾聰がハマりまくっている。立ち回りの凄さに感嘆。

武士の妻に「でくのぼう」と酷評された藩士らは形無しだったが、今の大部分のサラリーマンもこれと変わらないなと思い失笑。

 

清涼感の残る、これも黒澤らしい一作。

 

蜘蛛巣城(1957)

今回も黒澤作品。

こちらも「大衆映画の王道」的な面白さだった。

森の奥で出会った物の怪の予言に惑わされて右往左往する戦国武将を扱う一種の心理映画であり、趣向もプロットも全く違うが、「羅生門」的なニュアンスはどことなく感じられる。

一方で、主要登場人物以外の没個性と、物の怪の予言のみに取り憑かれている主人公の非科学的なあり様というのは、むやみやたらに「史実」の反映された歴史物に慣れている観衆には微妙な受け止めになるのではないか、とも思った。

 

THE OSHIMA GANG(2010)

映画監督大島渚の関係者へのインタビューをドラマ仕立てにした、半ドキュメンタリー作品。

下記、ネタバレ注意(?)

 

大島渚は毀誉褒貶相半ばする監督で、たぶんまだ作品は直接は見たことがない。

が、無論興味はあるので知識の仕込みとして良かろうとチョイス。

「オオシマギャング」は、無論、大島監督作品の制作に直接関与した人々を指す。

大島監督の妻で女優の小山明子が、インタビューでは大きな比重を占めている。

当時、大島は既に介護を必要とする状況だったらしく、その時の大島自身は作品には出演していない。

 

大島と松竹との関係に重心が置かれた描写ゆえに、大島作品や大島自身の思想というものが浮かび上がる内容となっている。

また、時代状況(学生運動浅沼稲次郎刺殺事件)との抜き差しならぬ対決が存在していた。

大島映画そのものに興味が湧いたのは言うまでもないが、このような背景知識を知ったうえで見るのと見ないのとでは、観方に大きな相違が出てくるはずだ。

良かれ悪しかれ、だが。

 

「インタビュアーとカメラマン2人は、大島ファンゆえにこのドキュメンタリーを撮影しようとしたが、撮影を進める中で、だんだん言動がおかしくなって、事件を起こしてしまう」という設定。

「ドキュメンタリー撮影をドラマ化」に似た型式の作品は、前にも1つ見たことがあった。

もしかしたらそれを指し示す映画用語もあるのかもしれないが、詳しく知らない。

 

連合赤軍山岳ベース事件を扱った「光の雨」だ。

「山岳ベースの映画制作」自体をドラマ仕立てにしている。

学生時代に見て、「随分おかしな撮影の仕方の作品だ」と感じ、面白くもなければ、理解も出来なかった。

が、「撮影者自身を被対象化」するという入れ子構造にすることで、「単純回想、単純トリビュート」になることを敢えて避けたいのだ、という意図は、今なら何となく伝わってくる。

制作陣自身も、「対象や対象事件の異常性」や、それら対象に対する思い入れや執着、あるいは愛というものを突き放して描きたい、との意図があるのだと差当り理解している。

 

もう一つ、派生して想起したのは、ホラー映画でヒットした「ブレア・ウィッチ・プロジェクト」(2000)。自分では見ていない。

「モキュメンタリー」の一環である「ファウンド・フッテージ」という手法を用いているという。

ブレア・ウィッチ・プロジェクト - Wikipedia

モキュメンタリー - Wikipedia

ファウンド・フッテージ - Wikipedia

 

映画史と、映画の撮影手法について理解と知識が深まる1作だった。

隠し砦の三悪人(1958)

黒澤作品は、高校の時好きで何本か見て以来。

戦場遅参のため戦利品を獲り損ねた間抜けな農民2人が、ひょんなことから隠し砦とそこに隠された軍用金の延べ棒、また敵軍から隠れて姿をやつした家老六郎太(三船敏郎)と雪姫に出会う。六郎太は敵軍からの包囲脱出のために2人を利用しようとするが、彼らの保身と強欲のために時に振り回されつつ逃避行を企てる、ドタバタ色込みの中世時代劇。

 

これこそ「大衆映画の王道」という映画を見せてもらった。

映画内の火祭りの迫力に圧倒された。映画のためにここまでやるのか、と。

とにかく中世のリアリティ再現にこだわっている。

デジャビュがすごいと思ったら、背景や動きのシーンの再現が、大好きな宮崎アニメ「もののけ姫」にそっくりなのだ。無論、プロットなどはまるで違う訳だが。

関係はあるのか、単に偶然なのか。

 

 

Jホラーの走り「八つ墓村」と、寅さん金田一

映画としては2代目となる「八つ墓村」(1977)を見た。

(初代は1951年、片岡千恵蔵金田一)

八つ墓村 - Wikipedia

自分は何を隠そう、横溝の原作金田一耕助シリーズファン。

と言ってもここウン十年読んでないけど。笑

でも読んでたのは小学生時代だから、筋金自体は入っていると言っても過言ではなかろう。

映像の金田一シリーズとしては、古谷一行派で、古谷金田一はそれなりに見た。

ただ、映像化版は、好きな作品は限られていて、さほど好きという訳ではない。

 

八つ墓村にせよ、犬神家にせよ、別段興味を持った作品はなかったのだ。

今回見たのは、寅さん(渥美清)演じる金田一耕助がどんなものか気になっていたからだ。

前に金田一耕助の雑学本みたいのを読んで、渥美清物があるのは知っていた。

 

八つ墓村の場合、金田一は脇役だ。

寅さん臭もさほどせず、影の薄い印象だった。

 

八つ墓村の、田治見要蔵の大量殺人シーンと、エンディングの犯人のおどろおどろしいシーンはなかなかの恐怖感があった。

原作主義者の自分は「Jホラーの祖先」としての「八つ墓村」の地位というものを意識してなかった。それを確認できたのは意義深かった。