creconte’s blog

映画感想多め。本・マンガ・ドラマetc.扱う予定。歴史・政治・社会・サスペンス・アングラ・官能等

ブラック・クランズマン(2019)

フーバーFBI長官時代、コロラドスプリングスで、「黒人第1号」として雇われた警官が、同僚ユダヤ人警官と「2人1組」でバディを組み、「KKK(米国の伝統的(?)な白人至上主義団体)への潜入捜査」を敢行する。

本作は、回顧録原作の伝記映画ということだ。

Ron Stallworth - Wikipedia

 

最近音楽的関心についても述べたが、米社会とその史的成り立ちというものに、興味が湧いている。

まだ十分に言語化できる状況にないが、「黒人社会・黒人文化」環境も、その軸の一つとは言える当ブログでも、既に関連作について述べたことはある。

遠い夜明け(1988) - creconte’s blog

ユダ&ブラック・メシア(2021) - creconte’s blog

 

「剥き出しの差別と憎悪」というのは、観ているこちらの「身体が」痛め付けられるような感覚がある。

それだけではない、今日の米国政治社会の「決定的分断」に至る断層というのは、「豊かさ」の底に「押し込め」られていただけ(恐らく米国人自身にとっては「身に染みて」知ってきた「実感」というものに過ぎない)だろう。

 

映画自体には「痛快さ」も無論あるのだが、恐らく「苦しさ」の方が大きい。

映画のエンディングは、おぞましい「シャーロッツビルの行進」と、車の突入事件の映像で締めくくられる、強い「政治的メッセージ」の込められた映画と言える。

 

率直に言って、知らないことの方が大きかったことと、現在は、「トランプ体制の反DEI政策」下では、政治的状況は「激変」したというべき状況にある。

今回は、「初見」事項を整理の上で、今の自分自身の「テーマ」を軽く整理して終えることとする。

ブラウン対教育委員会裁判 - Wikipedia

America First - Wikipedia

アイヴァンホー - Wikipedia

2017年のユナイト・ザ・ライト・ラリー - Wikipedia

 

本作の巧みさは、「黒人×ユダヤ人警官のバディ」により、「米社会の差別性」を「二重の観点から浮かび上がらせる」ところにある。

「黒人差別」については、上掲作品以外に、名高い「ロス暴動」に関するドキュメンタリーも最近見ていた。

Watch L.A. Burning: The Riots 25 Years Later | A&E

(アマプラでは「ロス暴動 -25年目の真実と今も残る差別-」)

米国では、「WASP」が「政治社会の主流を成す」ことは「常識」であると言って良いだろう。

 

自分が十分に掴めていないのは、米社会の「ユダヤ人差別」の部分だ。

米国では、現在の反DEIも、「反ユダヤ主義」の文脈が微妙に絡み合っているという。

本作内では、KKK内部でも、ユダヤ人に対する根深い憎悪が語られている。

「ネオナチ」の存在は「反ユダヤ主義」であるのは自明ではあるが、それと例えば、米国では、より旧くから存在するKKKとの歴史的絡みの有無などもよくはわからない。

「ユダヤ人差別」というのが、(ユダヤ人が国を喪って「離散」してからというもの)欧州世界全体の歴史的問題となったことは知っていても、では「(現代史における)白人至上主義」において、「ユダヤ人のみが、なぜ・どう疎外されたのか?」はもう少し踏み込んで理解したいと感じた。

 

「アメリカ・ファースト」は、トランプの掲げるスローガンとして知られるが、元は、第1次大戦時のウッドロー・ウィルソンが唱えたものらしい。

が、1920sのKKKでも用いられ、本作内のKKKも、それを唱えるシーンがある。

 

恥ずべきことにというべきかもしれないが、黒人運動の歴史を追う中で、初めて知る思想家の名も少なくないのだ。デュボイスも最近知ったが、未だに著作は読んでいない。

W・E・B・デュボイス - Wikipedia

コーネル・ウェスト - Wikipedia

 

本作と直接関係ないかもしれないが、新たに34歳、ムスリムの社会主義者でNY市長に当選して一躍有名となったマムダニの父も、「インド系ウガンダ人」の出身であるが、かなりの政治学者のようだ。日本では訳書は1冊のみ(『アメリカン・ジハード 連鎖するテロのルーツ』)で、殆ど知られてないようだが。

マフムード・マムダニ - Wikipedia

(マムダニも市長選では、パレスチナ支援を鮮明にしていることが取り上げられ、アンチキャンペーンの集中砲火になっているから、強ち無関係でもないと思うが)

 

以前、ブログで、「フランツ・ファノンへの心理的遠さ」について述べたことがある。

今もまだ「接近できた」とは言い難いが、「じわじわと近づいている」実感は少しずつある。

自分は海外旅行も、まだアフリカ諸国は周ったことがない。

前も述べたが、「日系の日本人(俗っぽく言えば、単に純ジャパ)」としての「自覚的なアイデンティティ」を意識する際には、こうした「心理的な遠さ」を敢えて「出発点」として重視している。

 

「専門家ではない」日本人にとっての、「無関係さ」「無関心」というものを「肯定」することはなくとも、そうした「一般的な感度」について「大きく乖離」していくのは「市民的感度から遊離」していってしまう、という懸念を持つからだ。

「誰でも、世界の差別問題全てを知ることが出来る」わけではないからだ。

 

「差別に関する歴史や知識」を知ることも、「啓発」=「知らない人に伝達」することも、無論重要なのは言うまでもない。

「遠かったとして、どのように接近していったのか?」「どのようにすれば『自分事』に変えられるのか?」そうした「知的アクセスへの経路」を明らかにすることもまた、「ハードルを低くしての道しるべ」を示すヒントになる、と考えているのである。

 

高校生以来で村上春樹を繙く(但しジャズ書のみw)

珍しく、というか初めて音楽の話。

というのも、音楽には別に詳しくないせいなのだが。

と言って、「音楽嫌い」というのではなく、大人になってからは、元々優先順位の低いところに持ってきて、サブスク時代に入り、「聴き方」がわからなくなっていた、というのが正直なところ。

ただ、最近は自らの「音楽的ルーツ」を掘り起こせる、掘り起こすべきだということに気づいて、試みているところ。

それについては、いずれ詳しく述べることもあるかもしれない。

 

ジャズも「ジャズ好き」から入っているわけでもない。

「ジャズの歴史」をディグる、という時に思いついたのが、村上春樹だった。

村上がジャズ好きで、翻訳など何冊かものしているのを思い出したのだ。

 

自分は村上に限らず、小説というものをほぼ読まない。

「5年に1冊」程度と言えるだろう。笑

これは明確に言えるが、「小説嫌い」、はっきり言えば「反文学」主義だからである。

逸れるので、それについては今回は深く触れないが。

最近は、気持ちの余裕が出てきて、「小説もたまにはいいかな」に転じつつある。

 

しかし、高校の時は、割とまだそこまで「小説嫌い」は明確でもなかった。

村上春樹は高校の時は好きで、ちょろちょろ読んでいた覚えがある。

「ノルウェイの森」とか、「ねじまき鳥クロニクル」とか。

対談の「村上春樹、河合隼雄に会いに行く」も好きだった覚えがある。

特に、「翻訳夜話」はそれ以降も愛読書で、今なお村上×柴田の「翻訳思想」には絶大な影響を受けたと言っても過言ではない。

 

が、小説を読んでた時代はそれきりで、翻訳も村上の翻訳作品そのものは読むことは特になかった。「文芸翻訳」メインなので当然ではあるのだが。

村上は、それ以降は打って変わって「嫌い」へと反転した。

文体を含め、「厨二病」臭が耐え難いものになったのである。

「翻訳夜話」も1のみで、2「サリンジャー戦記」は全くハマらなかった。

サリンジャー自体が、村上の「精神的双子」に見えて、とても読もうとはならなかったためである。

 

村上のジャズ書とは、「ポートレイト・イン・ジャズ」(和田誠との共著。デザイナーの和田がミュージシャンの絵を描き、村上が文を寄せた独特のジャズ名鑑)、「さよならバードランド」「ジャズ・アネクドーツ」(ビル・クロウの翻訳)。

「ジャズ史の入り」としては持ってこいと言えるだろう。

「村上春樹の再入門」には、別にならないだろう。笑 

「嫌じゃないし、思ったより読みやすいじゃん」とは感じたのだけど。

白州次郎(08‘NHKドラマスペシャル)

全3話完結。

色々なことを考えるきっかけを与えてくれる、「面白い」ドラマだったのは間違いない。

 

制作年を知らずに見て、あとから調べたら意外と旧い、20年近くも前のドラマだった。

見ている時は、「今らしい」グローバルな色彩を帯びた好作品だと思っていたのだが。

 

白洲次郎は、どの程度の知名度の歴史的人物なのか、ということ。

現代日本史好き、日本文化好きなら、「何となくは」名前が入っている、といった存在ではないだろうか。

自分は昔、白洲次郎の孫の書いた著作を読んだことがある。

白洲信哉 - Wikipedia

彼は、「小林秀雄の孫」でもあるのだ。(白洲の息子が、小林の娘と結婚している)

それほど「羨ましい血統」があろうか。

白洲次郎には、まず「小林秀雄との姻戚関係」というのが第一にインプットされていたのだ。

 

ただ、白洲本人に対しては、「英米の犬、吉田茂の小間使い」といった「卑小な」イメージで留まっている。

酷評かもしれないが、本作を見ても、この基本的な見方が変わったわけでは特にない。

 

ただ、「白洲個人への観方」そのものが変わらなくとも、彼自身の「職業(歴史的役割?)」柄でもあるが、歴史に対する「翻訳的補助線」を与えてくれるのは間違いなく、その面で「学び」が大きかったとは言える。

 

白洲は、戦前は近衛、戦後は吉田茂の、「私設秘書」的な(やや曖昧な)役回りで立ち振る舞っている(時期に応じて、政府内外の「役職」を無論公的に得てはいるわけだが)。

本作を見ながら、戦後「戦争責任」追及が決まった時の、近衛の内的な心理の独白が、ある程度「納得感」を得て「理解」できた部分はあったのである。

 

自分は吉田には、ある程度のリスペクトがある。

問題は、「戦前以来の保守英米派」の立ち位置というものを、どう捉えるべきかということ。

「吉田レジーム」と言われる、「戦後日本」の政治体制そのものを規定すらした「根源」と言ってもよい。

 

「太平洋か、アジアか」というのは、「近代日本」において初めて突きつけられるに至った「命題」である。

「太平洋」側から追い詰められ、無理くり「アジア」を(力づくで)「選択せしめられた」のが「アジア・太平洋戦争」である、という見方も可能だろう。

英仏合同で南シナ海に艦船航行 - 日本経済新聞

中国が南シナ海での動きを活発化させる中で、英仏軍艦が、東南アジア諸国との連携の中で再登場するというのは、自分にとっては「驚愕」以外の何物でもなかった。

 

一方で、これらは「再植民地化」よりは、「ポスト冷戦」の文脈で解釈するのが「自然な流れ」というべきなのだろう。

東南アジア諸国は既に、自立した主権国家とその一群なのであるから。

そうである限り、戦前の「親英米派」=「太平洋」の選択は、少なくとも「政治的には正統」として位置づけられて行かざるを得ない。

 

もう一つ、白洲は「戦後憲法制定」交渉にも携わっている。

この具体的な歴史過程については知らない部分が大きかったので、有益ではあった。

 

本作の「現代らしさ」は、当然ながら「英語での交渉」が大きな位置を占めていること。

白洲演じる伊勢谷や、妻正子を演じる中谷美紀は、聞きやすい良い英語を話していて感心した。

しかし、そこでの「英語」は「グローバルな英語」としての位置づけではなく、「英米への追随のための英語」である、ということに注意しておく必要がある。

 

白洲に僅かに感心したのは、彼はケンブリッジで経済学を学んでいたこと。

その素養こそが無論「武器」になるわけだが、そうした「真新しい武器」というのは、逆に日本では「英米寄りの、浮いた道具遣い」に映ったのも想像に難くない。

 

自分の白洲への評価が高くないのは、彼の立ち位置の「政治的胡散臭さ」にある。

現代の国会議員にも、「私設秘書」は認められている。

戦前戦後を問わず、近現代政治史を眺めると、「秘書官」が重要な立ち回りをするシーンは少なくない。

(戦前で有名なのは、西園寺の秘書を務めた原田熊雄である)

         原田熊雄 - Wikipedia

ただ、白洲の場合は、「秘書官」としてすら「中途半端」である(だからこそ、「自由人」として振舞えた、ということなのだと思うが)。

実際、当時の新聞からも「現代のラスプーチン」などと書き立てられていたというのに失笑してしまった。

「議員」とも「官僚」ともつかない、「政界浪人」臭に、何とも言い難い「いかがわしさ」を感じるのは否めない。

尤も、昭和政界は、「重臣」と称する、「首相経験者」等で構成される、非公式な部門の人々が大きな政治的発言力を持っていた故、安易に「比較」すること自体無意味だとは思うのだが。

この部分は「両義的」とは思う。白洲に「魅力」を感じる人も、恐らくいるのだとは想像する。自分はそれには該当しない、というだけで。

 

(現代の国会では、「私設秘書」「公設秘書(公費による給与支給)」があり、しかも「公設」に関しては「政策担当秘書資格試験」という資格試験まであり、「政策秘書」となった場合は、「特別職国家公務員」として位置づけられるらしい)

国会議員政策担当秘書 - Wikipedia

 

白洲が疎開して畑作をしていた時に、彼にも「赤紙」がくるのだが、彼は「徴兵免除」の依頼に、吉田系の軍人辰巳栄一に頼み込みに行く。

辰巳栄一 - Wikipedia

辰巳は「恥ずかしいと思わないのか」と厳しく叱責するが、白洲は「人にはそれぞれ与えられた役回りというものがある。自分は戦争に関与するつもりはない」と返すシーンは印象的だった。

白洲の屁理屈よりは、辰巳のほうがよほど格好いいとは感じたが、辰巳はなぜかその後、白洲の依頼に応じたようである。

 

白洲の依頼は、「特権を笠に着た卑怯なふるまい」だとは感じるのだが、「じゃあ、俺だったら赤紙が来たときにどうするのか?」は当然考えることになる。

兵役は無論嫌だが、現代だとSNS時代で、そうした特権を享受したことはすぐに暴かれ、総叩きにあって「社会的に抹殺」されるのがオチである。

韓国でも、「徴兵逃れ」をした若手タレントに対する世間の風当たりは非常に厳しいという。

となれば、「徴兵が来る前に、海外などに『合法的に逃走・逃亡』しておく」のがよかろう。

(白洲に限らず、戦中の一般の日本国民にはそうした「逃げ場」は当然なかった)

か、先手を打って、「自分なりの軍役ポジション」を確保しに行く、ということ。

「戦争に関与」せざるを得なくなったとしても、「国の一方的な命令」に従うのは嫌だが、「非公式な特権的手段で逃れる」のもまた嫌。

ならば、「己の意思で、関与の仕方とフィールドを見つける」しかない。

 

本作は、伊勢谷友介が主演を務めている点も、興味を惹かれたのだ。

彼が大麻事件で逮捕されたことは、やはり衝撃だったからだ。

彼は、俳優活動の他に、「リバースプロジェクト」という環境関連事業を営む実業家の顔もあった。

伊勢谷友介、衝撃の逮捕から3年。「自分はなぜ生きているのか」という問い | GOETHE

「マルチな顔を持つ多才な人物だが、独特のいかがわしい風貌を醸し出している」。

本作は、逮捕の10年以上も前の作品であるが、これほど白洲を演じるのにうってつけの俳優はいなかったと言えるだろう。

 

妻正子が弟子入りした青山二郎小林秀雄ファンにはお馴染みの人物)もドラマ内に出てくるのだが、現代の視点からすれば、「美意識の暴走した、横暴なやばいおっさん」で終わってしまうだろう。

「昭和」というのは、既にそれほど「遠い」時代になっている。

その「距離感」を見せつけてくれた作品、と振り返ってよい。

 

「桐島です」(2025)

(ネタバレ注意)

三菱重工ビル爆破事件の実行犯で、「東アジア反日武装戦線」のテロリストとして指名手配を受けながら、死の直前まで捕まらず、2024に病床で初めて自らの正体を「自白」した桐島聡を扱っている。

 

桐島のことは、まだ記憶に残る人もいるかもしれない。

自分は本作は公開時点で知っていて、行こうかとすら思っていたが、日程合わず断念していた。

 

色々な視点で非常に興味深い作品だった。

自分はいわゆる「赤軍」派に興味の強いほどではないが、「不思議・奇怪」な存在で、「なぜ彼らのような存在がいたのか?何を考えていたのか?」といったことは「何か気になる」部分はある、といったところ。

(桐島らはセクト的には赤軍派とは異なるらしいが、あまり詳しくは知らないし興味もない)

当ブログでも、関連作について挙げたことがある。

赤軍-P.F.L.P 世界戦争宣言(1971) - creconte’s blog

 

赤軍派連中は、収監されて以降は頭が冷え、「テロル」「内ゲバリンチ」には「後悔」を覚えていくものだ、と聞いたことがある。

桐島の場合も、「逃亡」後の人生において(パトカーや騒ぎ声にビクつき、家でも常に靴を傍に置いて過ごすなど)そうした軌跡が見られると言える。

 

ただ、「逃亡」後の人生において「手に入れた『安定』身分」(工務店の作業員)においても、時折見せる政治権力や社会への「批判」眼(国内の外国人差別、安倍政権の軍事政策、産官癒着等)が「健在」だったのが興味深かった。

「こんな日本で申し訳ない」と、彼が(「仲間」と捉えていた)「外国人労働者」にかけた言葉には、まさに「実感」が込められていたろう。

 

彼は既に、学生時代の段階で、それまで付き合っていた彼女に「時代遅れだと思うよ」と言い捨てられて別れを告げられている。

逃亡後の人生でも、常にビル爆破の瞬間が夢でフラッシュバックしたり、行きつけとなったライブバーで知り合った子に想いを寄せられる瞬間はあるものの、「俺は人を幸せにできるタイプじゃない。そういうんじゃないから」と。

ギターを覚えて、河島英五「時代おくれ」をその子とデュエットするシーン派は何か胸に染みるものがあった。

 

腹腹時計」は、自分たちの世代で言うと映画「バトルロワイヤル」で知った人が圧倒的だろう。つまり、文化的には「ひとつながり」になっているのである。

 

 

花の乱(‘94大河)

6月から約4ヶ月間かけて、大河ドラマ1本を観了。

足利8代将軍義政の妻日野富子(三田佳子)が主人公。

昔見て、妙に印象強く残っており、なおかつ「応仁の乱」を描いたドラマであることに強く惹かれ、思い切って時間を投下したのである。

「いや、面白く分かりやすく脚色し過ぎだろ」というツッコミは何回もしたものの、まあ「NHK大河らしい」ドラマで、文句なしの面白さだったと言えるだろう。

 

箇条書き的に、感想を整理していこう。

(なお興味を持ちながら、史実は特に確かめてない。呉座雄一「応仁の乱」すら読んでないレベル)

幕臣守護大名連の、分かりやすく魅力的なキャラクターの描かれ方。

 細川勝元山名宗全、大内義弘などの「骨太さ」が伝わってくる。

 自分は主に頭脳鋭敏な「勝元推し」で見ていたが、ライバル(と言っても元は婿舅の懇意な間柄だった)である宗全も、根っからの武人で魅力溢れる漢であった。

 

足利将軍家、また畠山家の込み入ったお家騒動、山城国一揆といった、言わば「都市騒擾」発の「地方内乱」を、巧妙に整理して描いている。

 義視の陰影ある人物性は、まさに佐野史郎がハマり役だった。

 

・このドラマを通じて、「義政」像が、かなり更新された。

 もっと「無能で遊興にふける」将軍を思い描いていたが、そうでもなく、言わば「(フランス革命前の)ルイ16世」を想起させる存在だった。

 決して「無能・無為の一辺倒」というのではなく、将軍らしい政治眼はあったものの、自ら作り出してしまった「後継争い」と、収拾不能となっていく幕府内内訌に押し流され、最後は「文化と趣味の世界」に走らざるを得なくなった、という苦悩がよく描かれていた。

 日本史の授業で、「銀閣(慈照寺観音堂)は、金閣に倣い、本当に銀箔を貼る構想だった」と語られていた。ドラマ上もそのような設定だった。

 実際のところはどうだったのか、非常に気になるところだ。

 乱と乱後の混乱はっきり横目にしながら、寺社造営に耽ろうとする姿は、「これぞ義政」と感じざるを得ないが。

 

 市川團十郎(先代12代目、現13代の父)の義政のおかげで、舞などに見応えがある。

 

・若き松たか子(富子の娘時代)、松岡昌宏(成人した義尚)が出演。

 ネタバレは避けるが、富子と義政が結ばれる過程というのは、「無慈悲」過ぎた。

 

一休宗純が非常な重要人物として登場し、奥田瑛二が「怪演」。

 富子と富子の「分身」(森女、森侍者。壇ふみ演)の生い立ちと人生全体に深く関わっている。

 歴史上もそうだが、謎めいた魅力的な人物。

 

・「国人」という存在もまた、伊吹三郎(役所広司)という人物や椿の荘をめぐる環境を通じて、非常に分かりやすく描かれていた。

 その「潰え」も含めて。

 「国人」というと、毛利元就のイメージもあり、さらに興味が湧いた。

 

日野富子は、かつて「悪女」に数えられる人物だった。

 ドラマ上だけでなく、史実としても「金銭にガメツイ」、むしろ近世的資本主義の走りを思わせる女性だったらしい。

 個人的見解だが、「悪女」には明確な条件があり、それは「母親の欲目で、子を押し潰してしまう」女がそれである。

 尤も、その場合、「彼女個人は強い女性」ということは言えるのだが。

 この場合、「子を食い潰しても、彼女自身が強く生きる」ことは、「一般に正義」と見なされない、というバイアスが前提にあるのは興味深いが。

 

・「晩期足利家」の内実の一端が、最後に描かれる。

 普通、日本史上では「名前しか出てこない」、義材(よしき。10代将軍、義視の子)、義澄(ドラマ内では義遐よしとお。11代将軍、堀越公方家出身)などが登場する。

 

・改めて重要なポイントだが、足利幕府というのは、「京の武家政権」であるということ。

 だから将軍家と言っても、自ずと「公家」然として華美で風雅な生活に流れていく。

 また、応仁の乱というのは、「京都内市街戦」として戦われた、ということである。

 これは幕府の開祖尊氏のアイデンティティでもあるのだが。

 「軍事史」としての振り返りの観点で見ても、面白いのである。

 

・少し時代が降るのだが、「天文法華の乱」は、誰か歴史小説か、創価学会辺りでもいいから笑、ぜひ映画化・ドラマ化して欲しいと、前から思っている。

 なぜその頃、法華宗が力を持つことになったのか。

 

花の乱 - Wikipedia

慈照寺 - Wikipedia

日野富子 - Wikipedia

https://ja.wikipedia.org/wiki/足利義材

足利義澄 - Wikipedia

市川團十郎 (12代目) - Wikipedia

 

とうもろこしの島(2014)

原題同じ(Corn Island)。

Corn Island (film) - Wikipedia

極めて静かな印象的な映画だったのだが、どうまとめればいいのか迷った。

プロットは極めて単純で、感想の書きようすらない、のだが…

 

エングリ川の狭い小島で、木の粗末な掘っ建て小屋を建てるところから、トウモロコシ畑を育てていく、アブハズ人の老人とその娘との生活が軸。

最初30分ほど、何もないところからずーっとその小屋を建てていくシーンで占められる。

平穏な自然生活に見えながら、時に、グルジア兵のパトロール船が往来するのが、心を波立たせる。

 

その先のプロットは単純で、ネタバレのため避けておく。

「寓話的映画」としたならば、これらの背景知識はむしろ「興醒め」に当たるものなのかもしれないが、それにしても、そもそも字幕ですら解説が殆どない。

 

上述のwikiだけでは、構図が分かりにくいため、やはり覚えは必要だろう。

アブハジア紛争(アブハジアふんそう)は、アブハジアグルジアジョージア)から独立を求めた武力闘争で、ロシアは、アブハジアを支援する立場である、ということ、エングリ川は、アブハジアグルジア軍事境界線に位置する、という構図である。

アブハジア紛争 - Wikipedia

 

https://ja.namu.wiki/w/%EC%97%94%EA%B5%AC%EB%A6%AC%EA%B0%95

 

 

消えた声が、その名を呼ぶ(2014)

 原題「The Cut」。

https://en.m.wikipedia.org/wiki/The_Cut_(2014_drama_film)

第一次大戦時のアルメニア虐殺事件と、それによる一家離散の悲劇を扱った作品。

後半はさながら、「母をたずねて」ならぬ「娘をたずねて三千里」の趣きを帯びる。

当然ながら、アルメニアアルメニア虐殺事件の前提知識はほぼない。

 

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/アルメニア人虐殺

主人公のナザレット(ナザレはイエス・キリストの生まれた村に由来)は、虐殺から九死に一生を得るが、引き換えに声を失う。

一族ほぼ全滅の中、娘の消息を追い、中東の孤児院から、米大陸まで巡ることとなる。

 

極めて印象深い作品。

多国籍だが、「何語が話されているのか?」が絶えず掴めない。

 

アルメニア民族宗教キリスト教なのは知っていたが、「正教」色がないのが意外と思いきや、本当に「東方正教会」系ではなかったのである。

複雑な歴史的背景があった。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/アルメニア使徒教会