フーバーFBI長官時代、コロラドスプリングスで、「黒人第1号」として雇われた警官が、同僚ユダヤ人警官と「2人1組」でバディを組み、「KKK(米国の伝統的(?)な白人至上主義団体)への潜入捜査」を敢行する。
本作は、回顧録原作の伝記映画ということだ。
最近音楽的関心についても述べたが、米社会とその史的成り立ちというものに、興味が湧いている。
まだ十分に言語化できる状況にないが、「黒人社会・黒人文化」環境も、その軸の一つとは言える当ブログでも、既に関連作について述べたことはある。
ユダ&ブラック・メシア(2021) - creconte’s blog
「剥き出しの差別と憎悪」というのは、観ているこちらの「身体が」痛め付けられるような感覚がある。
それだけではない、今日の米国政治社会の「決定的分断」に至る断層というのは、「豊かさ」の底に「押し込め」られていただけ(恐らく米国人自身にとっては「身に染みて」知ってきた「実感」というものに過ぎない)だろう。
映画自体には「痛快さ」も無論あるのだが、恐らく「苦しさ」の方が大きい。
映画のエンディングは、おぞましい「シャーロッツビルの行進」と、車の突入事件の映像で締めくくられる、強い「政治的メッセージ」の込められた映画と言える。
率直に言って、知らないことの方が大きかったことと、現在は、「トランプ体制の反DEI政策」下では、政治的状況は「激変」したというべき状況にある。
今回は、「初見」事項を整理の上で、今の自分自身の「テーマ」を軽く整理して終えることとする。
2017年のユナイト・ザ・ライト・ラリー - Wikipedia
本作の巧みさは、「黒人×ユダヤ人警官のバディ」により、「米社会の差別性」を「二重の観点から浮かび上がらせる」ところにある。
「黒人差別」については、上掲作品以外に、名高い「ロス暴動」に関するドキュメンタリーも最近見ていた。
Watch L.A. Burning: The Riots 25 Years Later | A&E
(アマプラでは「ロス暴動 -25年目の真実と今も残る差別-」)
米国では、「WASP」が「政治社会の主流を成す」ことは「常識」であると言って良いだろう。
自分が十分に掴めていないのは、米社会の「ユダヤ人差別」の部分だ。
米国では、現在の反DEIも、「反ユダヤ主義」の文脈が微妙に絡み合っているという。
本作内では、KKK内部でも、ユダヤ人に対する根深い憎悪が語られている。
「ネオナチ」の存在は「反ユダヤ主義」であるのは自明ではあるが、それと例えば、米国では、より旧くから存在するKKKとの歴史的絡みの有無などもよくはわからない。
「ユダヤ人差別」というのが、(ユダヤ人が国を喪って「離散」してからというもの)欧州世界全体の歴史的問題となったことは知っていても、では「(現代史における)白人至上主義」において、「ユダヤ人のみが、なぜ・どう疎外されたのか?」はもう少し踏み込んで理解したいと感じた。
「アメリカ・ファースト」は、トランプの掲げるスローガンとして知られるが、元は、第1次大戦時のウッドロー・ウィルソンが唱えたものらしい。
が、1920sのKKKでも用いられ、本作内のKKKも、それを唱えるシーンがある。
恥ずべきことにというべきかもしれないが、黒人運動の歴史を追う中で、初めて知る思想家の名も少なくないのだ。デュボイスも最近知ったが、未だに著作は読んでいない。
本作と直接関係ないかもしれないが、新たに34歳、ムスリムの社会主義者でNY市長に当選して一躍有名となったマムダニの父も、「インド系ウガンダ人」の出身であるが、かなりの政治学者のようだ。日本では訳書は1冊のみ(『アメリカン・ジハード 連鎖するテロのルーツ』)で、殆ど知られてないようだが。
(マムダニも市長選では、パレスチナ支援を鮮明にしていることが取り上げられ、アンチキャンペーンの集中砲火になっているから、強ち無関係でもないと思うが)
以前、ブログで、「フランツ・ファノンへの心理的遠さ」について述べたことがある。
今もまだ「接近できた」とは言い難いが、「じわじわと近づいている」実感は少しずつある。
自分は海外旅行も、まだアフリカ諸国は周ったことがない。
前も述べたが、「日系の日本人(俗っぽく言えば、単に純ジャパ)」としての「自覚的なアイデンティティ」を意識する際には、こうした「心理的な遠さ」を敢えて「出発点」として重視している。
「専門家ではない」日本人にとっての、「無関係さ」「無関心」というものを「肯定」することはなくとも、そうした「一般的な感度」について「大きく乖離」していくのは「市民的感度から遊離」していってしまう、という懸念を持つからだ。
「誰でも、世界の差別問題全てを知ることが出来る」わけではないからだ。
「差別に関する歴史や知識」を知ることも、「啓発」=「知らない人に伝達」することも、無論重要なのは言うまでもない。
「遠かったとして、どのように接近していったのか?」「どのようにすれば『自分事』に変えられるのか?」そうした「知的アクセスへの経路」を明らかにすることもまた、「ハードルを低くしての道しるべ」を示すヒントになる、と考えているのである。