ICTY(旧ユーゴスラビア特別法廷)検察官カルラ・デル・ポンテが、ユーゴスラビア紛争での民族浄化に関わった戦争犯罪者の摘発・告発すべく国際社会で苦闘する様子を追ったドキュメンタリー。
スイスのドキュメンタリー番組のもようで、カルラに対する番組のインタビューはフランス語で行われているが、カルラの会見や、各種国際会議などでは英語が用いられている。
International Criminal Tribunal for the former Yugoslavia - Wikipedia
近年は、旧ユーゴスラビアでもクロアチアはサッカー強豪国でもあり、また風光明媚で日本人にも人気の観光スポットになっているようだ。
が、その歴史は依然縁遠いものには違いない。
ミロシェヴィッチがICCで裁かれたことこそ知っていたが、具体的な経過は知らなかったし、今回のドキュメンタリー内で、戦犯として告発されている以下の人物については当然知らなかった。
ドキュメンタリー時はちょうどゴトヴィナは逮捕されたもののその後裁判を経て釈放、カラジッチとムラジッチは逮捕・裁判の末、終身刑となったようである。
経過については今後もう少し詳しく追ってみたい。
時おりしも、ちょうどICC所長に日本人の赤根智子さんが就任したというニュースが駆け巡った。
通常なら喜ぶべきところかもしれないが、ウクライナ紛争とガザ危機、また目前に迫った台湾危機という前途多難の最悪の国際環境下では、むしろ貧乏クジを引かされたのでは、と勘繰ってしまう。
国際法は重視すべきだが、国際法には、法自体のあり方にも、その実行のあり方にも様々な限界や制約がある。
そのことを、このドキュメンタリーは存分に教えてくれている。
国際刑事法・刑事裁判とはいっても、その履行は、結局は主権国家のパワーゲームの狭間に存在するものでしかない。
それでも法は法であり、カルラを初めとするICCスタッフはその法順守のために関係各国を巡り、国際社会にアピールしつつ苦闘するし、また民族浄化の犠牲者遺族たちは、「正義」が行われることを望んでもいる。
しかし個人的にはやはり、その「限界・制約」面に目を奪われざるを得ない。
自分は、9.11テロを受けたアフガン侵攻でもイラク戦争でも、無辜の民衆の命が米軍の攻撃で奪われる様子を、拳を震わせながら見ていたし、それで「なんでアメリカの側は裁かれないわけ?」と強い疑念に支配されていた。
法を執行するには強制力が必要なのは言うまでもない。
だが、実際には、国際社会の「絶対的強者」への法執行主体は存在しないのである。
その法のどこに「正義」があるというのか?
結局は、中小諸国のパワーゲームに部分的に介入できるだけに過ぎない。
それでも「ないよりマシ」かもしれないが。
もう一つは、「欧米」や「日本」は、「法治主義」とか「法の支配」を主張する資格があるのか?という部分だ。
これも「比較論において、中露・北朝鮮よりはマシ」というに過ぎぬのではないのか。
どうもその「大義の主張」に対する自己欺瞞性への疑念や不信感が拭いきれない。
第1次大戦後の国際社会(ヴェルサイユ体制)は、大戦の反省の上に立って構築されたが、結局は第2次大戦を押し止めることは出来なかった。
「戦間期」の期間は、その時よりは長かったが、結局はまた、殆ど同じことを繰り返している。
人間とか人間社会の「進歩」というのは容易ではない、というより不可能であるということを、歴史は厳然と示してくれているのだ。