creconte’s blog

映画感想多め。本・マンガ・ドラマetc.扱う予定。歴史・政治・社会・サスペンス・アングラ・官能等

パニック・イン・ミュージアム(2021)

モスクワ劇場占拠事件(2002)をモチーフにした、劇場テロサスペンス。

再現ドキュメンタリー系なのかと思ったが、ヒューマンドラマ仕立てのフィクションと見るべきだろう。

(英文wikiにはかなり詳しく経過が載っているが、精細には追えてない)

Moscow theater hostage crisis - Wikipedia

 

というより、ロシアで、精密な再現ドキュメンタリーなど政治的に出来るはずはない。笑

トンチンカンな期待だったというものだ。笑

それでも、サスペンスとしても、ヒューマンドラマとしても非常によく出来ていて楽しめたし、考え感じることも多かった。快作と言っていい。

サスペンスとしての構図も題材も複雑なので、本当は2,3度は見返した方が良いだろう。

 

ネタバレにならない範囲で、各種感想を記しておこう。

チェチェン人のテログループの犯行だが、構図は複雑。

・「無差別テロ」ではない。優遇者の順序というもので、テロの政治的意図や背景が浮かび上がる。

・描かれるロシア人の社会関係、人間関係の面白さ。

・最大のハイライトとなっているのは、人質となった(元)女性歴史教師アッラと、チェチェン人テロリストの命懸けの会話。まるで歴史家並みの透徹した洞察力と政治認識で、テロリストと対峙する。

・面白かったのが、人質にされたことで、観劇に連れて来られた恨み節を連ねる生徒の発言に、「お前たちは子どもにまともな教育ができてない。真っ当な教師ではない」と、テロリストたちが教師(上述アッラとは別の教師)を断罪しているシーン。

 「教師は、アッラーの言葉を伝える、敬われるべき存在だ」という発言に納得。

・女性テロリストが、「ニカブ」を着用していた。その名称も存在も初めて認識。

  Niqāb - Wikipedia

etc.

 

チェチェン紛争については、無論知らないことしかない。

First Chechen War - Wikipedia

Battle of Grozny (1994–1995) - Wikipedia

 

本作の重要人物(主人公?)アッラの言葉に重みと真実性が感じられるのは、彼女が単に、歴史教師として「ロシア人(の正史)の歴史観」で語ろうとしたり、押し付けようとしていないことにある。

無論秩序や平和を志向しているという中心的な視点ではそうであるものの、彼女の教え子との関係性という実存的体験に根差しているということと、また自らは異教徒(キリスト教徒)であっても、イスラーム教やムスリムに対しても深い理解度を示していたからだ。

 

また一方の、チェチェン人テロリストの視点も、テロリストの視点だからといって一概に無視できる訳は当然ない。

彼らの視点には、地域紛争や、また現在グローバル化したテロリズムの淵源を理解するカギになる視点や情報がいくつも含まれている。

 

また、ロシアは、(「西側」の視点からすると)中国と変わらない・容易に「一体化」するように見えるが、その差異性も押さえるべきだ、というのが個人的な考えだ。

ロシアは「多民族国家」だ。

その「様相」というのがどのようなものなのかの一端が垣間見えた。

ロシア人のムスリム観というものについても。

それはやはり、(中国人よりは)ヨーロッパ人のそれに近いと見るべきだろう。

 

ロシア国内の「民主主義」体制・政体についても同様だ。

ロシアは権威主義国家だが、(法的な)「体裁(建前)」は、中国よりはヨーロッパ寄りである。

各種実際の運用により権威主義を維持している面も強い。

 

次に、イスラーム教とムスリムについてだ。

日本人にとっては、イスラーム教というのは、ともかく縁遠い、理解しにくい文化だ、という認識がなされてきたように思う。

一方で近年は、観光・ビジネスや各種政情等の多様な側面で急速に交流が深まり、理解の必要性も高まってもいる。

 

イスラーム教は一神教ではあるが、共同体規範という点では、儒教規範からの類推の利きやすい部分も一定程度ある、と考えている。

良きにつけ悪しきにつけ、という留保はつくが。

 

本作に出てきたチェチェン人テロリストは、歴史教師アッラとの対話の中で、「無神論者」を断罪している。「日系日本人」(妙な表現だが、要は日本社会のマジョリティを成す日本人)の多くは、自分を「無宗教」と自己規定するだろうが、「無神論」者との区分を定義づけられる人は多くないだろう。

とりわけ、「原理主義」者であればあるほど、「無神論」者の害悪を強調する場合が殆どだろう。

 

自分はまだ実際にそういう経験はないのだが、「海外の敬虔な一神教徒」に対して、「自文化の宗教性」を、どう説明できるだろうか、ということをたまに考える。

無論、「人間、話せば誰でも分かり合える」というような生っちょろい思想は持ってはいない。

そうであるとしても、(異文化・異教(徒)への理解のある前提だが)自文化やその宗教性を説明できる言葉を持ち合わせていなければ、共通基盤を構築する手がかりすら得られない。

 

日本人が日本人として、自己の「無宗教の平和主義」であることを、きちんと自己表現できるか。また「表現」したとして「理解」してもらえるか。

さらに、「理解」されたとして、それが「無力」なものではないか。

「無能な平和主義者」というのは、「気の優しいだけの無力な弱者」じゃないの?と最近は強く思っている。そして、大部分の日本人がそれに過ぎないだろう、ということも。

 

自分は、本作のアッラのような命をかけた対話を、原理主義者やテロリストと対峙したときに実際に出来るだろうか。

「無能な言葉」には用はないし、意味も殆どない。

そして無論、死んでしまっても意味はない。

タリバンの大仏破壊を「非難」するだけでは意味はない。実際にそれが止められる・破壊されないという「結果」が伴わなければ。

(「非戦」でなく)世界から実際に戦争をなくす、「平和主義」を志すとするなら、「より強い力」を持たねば無理だ。

じゃあ本当に、米国・ロシアや中国の「軍事力」と異なる「力」は可能なのか。

 

まもなく勃発する第3次大戦は、そうした問いが無に帰することを証明することになるだろう。