creconte’s blog

映画感想多め。本・マンガ・ドラマetc.扱う予定。歴史・政治・社会・サスペンス・アングラ・官能等

ニュルンベルク裁判 人民の裁き(2004)

「世界映像遺産/ドキュメンタリーシリーズ」の1本。

レンタル大失敗だった。

というのは、本作は「ロシア語・字幕なし」だったのである…!

事前に情報確認不十分だった自分の完全なミスなのだが。

 

言葉が分からず、裁判シーンで殆どが占められたのでざっと流して終わった。

それでも、映像から多少の刺激は得られた。

本当の自分の狙いとしては、ニュルンベルク裁判や、ドイツの戦後処理に関する知識を得て、戦争責任・戦後処理、またそれらに関する国際法に関する知識や視点を得たい、というところにあった。

実際、前も述べたかもしれないが、ドイツに限らず、「戦後ヨーロッパ史」についてはとりわけ無興味で推移してきた。

ドイツは特に、「同じ敗戦国」であり、国民性などを含めても「同族嫌悪」ゆえに正面から見詰められない、という精神性が働いていたように思う。

 

しかし、ドイツと日本を取り巻いていた政情は異なるし、「戦争責任・戦後責任」とか「植民地責任」というものも同一に論じられるべきではない。

1990年代の「戦争責任」論争に対し、常に感じていたモヤモヤ感を、言語化し、決着させるべき時が来たのだ、と思っている。

 

パニック・イン・ミュージアム(2021)

モスクワ劇場占拠事件(2002)をモチーフにした、劇場テロサスペンス。

再現ドキュメンタリー系なのかと思ったが、ヒューマンドラマ仕立てのフィクションと見るべきだろう。

(英文wikiにはかなり詳しく経過が載っているが、精細には追えてない)

Moscow theater hostage crisis - Wikipedia

 

というより、ロシアで、精密な再現ドキュメンタリーなど政治的に出来るはずはない。笑

トンチンカンな期待だったというものだ。笑

それでも、サスペンスとしても、ヒューマンドラマとしても非常によく出来ていて楽しめたし、考え感じることも多かった。快作と言っていい。

サスペンスとしての構図も題材も複雑なので、本当は2,3度は見返した方が良いだろう。

 

ネタバレにならない範囲で、各種感想を記しておこう。

チェチェン人のテログループの犯行だが、構図は複雑。

・「無差別テロ」ではない。優遇者の順序というもので、テロの政治的意図や背景が浮かび上がる。

・描かれるロシア人の社会関係、人間関係の面白さ。

・最大のハイライトとなっているのは、人質となった(元)女性歴史教師アッラと、チェチェン人テロリストの命懸けの会話。まるで歴史家並みの透徹した洞察力と政治認識で、テロリストと対峙する。

・面白かったのが、人質にされたことで、観劇に連れて来られた恨み節を連ねる生徒の発言に、「お前たちは子どもにまともな教育ができてない。真っ当な教師ではない」と、テロリストたちが教師(上述アッラとは別の教師)を断罪しているシーン。

 「教師は、アッラーの言葉を伝える、敬われるべき存在だ」という発言に納得。

・女性テロリストが、「ニカブ」を着用していた。その名称も存在も初めて認識。

  Niqāb - Wikipedia

etc.

 

チェチェン紛争については、無論知らないことしかない。

First Chechen War - Wikipedia

Battle of Grozny (1994–1995) - Wikipedia

 

本作の重要人物(主人公?)アッラの言葉に重みと真実性が感じられるのは、彼女が単に、歴史教師として「ロシア人(の正史)の歴史観」で語ろうとしたり、押し付けようとしていないことにある。

無論秩序や平和を志向しているという中心的な視点ではそうであるものの、彼女の教え子との関係性という実存的体験に根差しているということと、また自らは異教徒(キリスト教徒)であっても、イスラーム教やムスリムに対しても深い理解度を示していたからだ。

 

また一方の、チェチェン人テロリストの視点も、テロリストの視点だからといって一概に無視できる訳は当然ない。

彼らの視点には、地域紛争や、また現在グローバル化したテロリズムの淵源を理解するカギになる視点や情報がいくつも含まれている。

 

また、ロシアは、(「西側」の視点からすると)中国と変わらない・容易に「一体化」するように見えるが、その差異性も押さえるべきだ、というのが個人的な考えだ。

ロシアは「多民族国家」だ。

その「様相」というのがどのようなものなのかの一端が垣間見えた。

ロシア人のムスリム観というものについても。

それはやはり、(中国人よりは)ヨーロッパ人のそれに近いと見るべきだろう。

 

ロシア国内の「民主主義」体制・政体についても同様だ。

ロシアは権威主義国家だが、(法的な)「体裁(建前)」は、中国よりはヨーロッパ寄りである。

各種実際の運用により権威主義を維持している面も強い。

 

次に、イスラーム教とムスリムについてだ。

日本人にとっては、イスラーム教というのは、ともかく縁遠い、理解しにくい文化だ、という認識がなされてきたように思う。

一方で近年は、観光・ビジネスや各種政情等の多様な側面で急速に交流が深まり、理解の必要性も高まってもいる。

 

イスラーム教は一神教ではあるが、共同体規範という点では、儒教規範からの類推の利きやすい部分も一定程度ある、と考えている。

良きにつけ悪しきにつけ、という留保はつくが。

 

本作に出てきたチェチェン人テロリストは、歴史教師アッラとの対話の中で、「無神論者」を断罪している。「日系日本人」(妙な表現だが、要は日本社会のマジョリティを成す日本人)の多くは、自分を「無宗教」と自己規定するだろうが、「無神論」者との区分を定義づけられる人は多くないだろう。

とりわけ、「原理主義」者であればあるほど、「無神論」者の害悪を強調する場合が殆どだろう。

 

自分はまだ実際にそういう経験はないのだが、「海外の敬虔な一神教徒」に対して、「自文化の宗教性」を、どう説明できるだろうか、ということをたまに考える。

無論、「人間、話せば誰でも分かり合える」というような生っちょろい思想は持ってはいない。

そうであるとしても、(異文化・異教(徒)への理解のある前提だが)自文化やその宗教性を説明できる言葉を持ち合わせていなければ、共通基盤を構築する手がかりすら得られない。

 

日本人が日本人として、自己の「無宗教の平和主義」であることを、きちんと自己表現できるか。また「表現」したとして「理解」してもらえるか。

さらに、「理解」されたとして、それが「無力」なものではないか。

「無能な平和主義者」というのは、「気の優しいだけの無力な弱者」じゃないの?と最近は強く思っている。そして、大部分の日本人がそれに過ぎないだろう、ということも。

 

自分は、本作のアッラのような命をかけた対話を、原理主義者やテロリストと対峙したときに実際に出来るだろうか。

「無能な言葉」には用はないし、意味も殆どない。

そして無論、死んでしまっても意味はない。

タリバンの大仏破壊を「非難」するだけでは意味はない。実際にそれが止められる・破壊されないという「結果」が伴わなければ。

(「非戦」でなく)世界から実際に戦争をなくす、「平和主義」を志すとするなら、「より強い力」を持たねば無理だ。

じゃあ本当に、米国・ロシアや中国の「軍事力」と異なる「力」は可能なのか。

 

まもなく勃発する第3次大戦は、そうした問いが無に帰することを証明することになるだろう。

 

 

スノーデン(2016)

NSA(国家安全保障局)による個人情報収集を世に暴露した元同局職員、エドワード・スノーデンの伝記的映画。

桁外れの面白さだったが、10年近く昔の映画で、重層的な感想が浮かんだ。

いくつかの視点に分けて、整理することにする。

 

・CIAが、「(技術に飽かせた政府の好き放題の個人情報収集を疑問視する)真っ当な市民感覚」を持ったスノーデンのような人材を抱える包容力を持っていたことへの驚き。

 また、最終的にそれを告発するに至る、「米民主主義と自由主義」の砦を守ろうとする一個人の良識と勇気への称賛。

・「告発することによる米国からの亡命」で、香港経由でロシアに渡ったという皮肉すぎる面白さ。

 9.11テロ~イラク戦争で「監視国家」化した米国は、そもそも「ロシア化」していた。(そしてスノーデンが告発したのは、オバマ民主党政権下だったのである)

 そうしたヒストリーを意識してないのか、その後は、ロシアに偏ったトランプ登場を今度は片方で非難していたという歴史的皮肉。

 そして、トランプを「告発」した先にも、大統領再選は既に防ぎようもない模様という皮肉の連続。

・「グーグルのハイパー化させた検索エンジン」のようなものを、情報当局で開発して世界でほしいままに操作して個人情報を集め、また少なからぬ人々の人生を狂わせたり奪っていたこと。

・一方で、既に生成AIが暴れまわっている今時点の目から見ると、既に「過去」を描いたに過ぎない面も少なくない。現状、個人単位で、容易に自由に生成AIを任意に創出し、世界を混乱させ得る時代となった。片方で「あれ、今情報当局の役目って…?」ともなる。

 

エドワード・スノーデン - Wikipedia

スノーデンは、2022年にプーチンからロシア国籍付与されたとのこと。

 

「何重にもひねくれ曲がった現代社会」の重要な起源の一つを、本作で確かめられた気がする。

 

オフィサー・アンド・スパイ(2019)

(原題はJ'accuse。ゾラの有名な見出し「私は弾劾する」)

一部ネタバレ注意。

 

ポランスキー監督作品。

19世紀末フランスのドレフュス事件軍事法廷サスペンス。

 

ドレフュス事件には前々から興味があり、本も軽くだが、1,2冊ほど目を通したことがある。が、なかなかピンとこない。ところに出会ったのが本作。

先回記事(「ジャック・ザ・リッパー」)と同時期を扱っているにも関わらず、こちらはとても良かった。

単純に制作年代だけでも丸20年違うから、比較もフェアではなかろうけど。

 

主人公は、ドレフュスの士官学校時代の教官で、新たに防諜部長に赴任したピカール中佐。ピカールが、防諜部内でドレフュスを有罪付けた証拠の杜撰さに気づき、隠蔽を続けようとする陸軍首脳部と闘っていく。

 

自分は、フランス近代史にも割と興味のあるほうだが、「切り口」全体に対して、あまりピンと来てないところがある。フランス国家や社会の成り立ちや、フランス人の性質やものの考え方といった根源的な部分がよく分かってないからだ。この「第三共和政」(現代のフランスは「第五共和政」)の時代は、特に掴みにくい時代だと感じる。

本作では、当時のフランス社会の右翼的な空気感と反ユダヤ主義というものが描かれていたのでそうした視点で有難かった(ゾラの書物の「焚書」のシーンや、ダビデの星が描かれユダヤ商店が打ち壊されるシーンなど)。

 

「ピンと来ない」のは当然のことで、本作で描かれるような、基本的な事件や、政治構図が分かってなかったからだ。例えとして妥当か分からないが、外国人に、いきなり忠臣蔵新選組のストーリーを示すようなものだろう。

登場人物も多いし、政治構図も複雑で、なおかつ後代に与えた影響も甚大である。

ピカールはのちに陸軍大臣へと出世するし、事件当時オーロール紙(ゾラの声明を掲載)の編集長だったクレマンソーも、のち首相へと登り詰める)

 

間違った感想かもしれないが、この早い時代に、「法治主義」や「反差別」を争点とする重大事件を通じて、「社会の近代化」が成された、という点には少々羨ましさも感じた。

 

興味深かったのは、このころの犯罪捜査も意外と「科学的」だった、というのが描かれていたことだ(尤も、その不備ゆえにドレフュスは当初有罪とされるのだが)。

筆跡鑑定のプロセスが精細に描かれていたのが良かった。

 

もう一つ、文化的・歴史的な視点かもしれないが、「乗っている護送車を止めて、収監者が直接新聞を買う」シーンが「おお…!!」と思い、とても面白かった。

 

歴史的関心を、十分に深めてくれる意味でも、丹念に作り込まれた好作品。

ドレフュスやユダヤ史については引き続き追いかけていきたいし、また、ゾラは、日本ではもっぱらドレフュス事件の絡みでしか触れられないが、彼の文学作品自体も、とても興味深いものだ。「いつかは触れたい」と思ったまま、ずっと放置してしまっているが…笑

(「黒歴史」かもしれないが、昔、他ブログで、ゾラの「私は弾劾する」の紙面画像をプロフィールのサムネイルに使っていたことがある)

 

ジャック・ザ・リッパー(1999)

19世紀末ロンドンの伝説の切り裂き魔、「ジャック・ザ・リッパー(切り裂きジャック)」を扱った物語。

史実は知らずに見たのだが、かなり忠実に再現しようとしたようだ。

ロンドンのホワイトチャペルで、娼婦の連続切り裂き殺人事件が起こり、「ジャック・ザ・リッパー」と名乗る犯行声明が各所に送られてメディアは大々的に報じ、捜査に伴う様々な混乱や紛糾も見られた。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/切り裂きジャック

 

ただ、過去作品の歴史物全般にしばしば言えるが、プロットや構成、時代考証、人の描き方など、全般に稚拙さが見られ、映画としては駄作。まあ、今の視点から見ている限界だろうけれど。

 

19世紀末ロンドンは、大好きなシャーロック・ホームズが活躍していた舞台。スコットランド・ヤード(ロンドン警視庁)の無能さは、ホームズ譚でもしばしば言及されており、その通りではあった。また、切り裂きジャックの事件には、ロンドンの貧困社会や格差の問題の背景も示唆されている。

この映画は言わば入門編といった位置づけで、もう少し現代的な視点や分析からの本格ドキュメンタリーを見てみたいところだ。

 

と思ったら、ジョニー・デップフロム・ヘル」はずっと前観た覚えがある。内容は覚えがないが、確かに良かったような…いつかまた試してみるか。

 

 

閉ざされた森(2003)

(原タイトルは「BASIC」)

4転5転のアーミースリラー。パナマ運河付近の密林に訓練に出たレンジャー部隊が消息を断ち、捜索隊は同士撃ちした生き残りを収容したところに、基地司令官が非正規の手段で、凄腕の捜査官を呼び寄せるところからストーリーが始まる。最初は、横暴な鬼教官の軍曹のイジメ絡みの事件かと思いきや…

 

大好きなタイプのサスペンス。

最初は「戦火の勇気」みたいなパターンかと思ってたら、いや結末は「交渉人」?でも終わらず「ハイ・クライムズ」じゃなくて、まさかの「◯◯」かい‼︎(ネタバレ防止のため伏字)

サミュエル.L.ジャクソンとトラボルタの味もいい感じに滲み出ている。

 

もっとも、4転5転してるのに1回だけしか見てないから、全貌を理解できてないかもだが、見直すとかなり単純な構図かもしれない。

いずれにせよ傑作。

過去のスリラーが去来するほど練れつつあるのを再確認。良いやら悪いやら。

 

赤軍-P.F.L.P 世界戦争宣言(1971)

若松プロダクション制作。

PFLP(パレスチナ解放人民戦線)のプロパガンダ映画。

 

勘違いというか、最初は「日本赤軍ドキュメンタリー映画」のつもりでレンタルしてしまった。

率直に「キツイな」というのが最初の感想。

プロパガンダ映画」という形式のキツさだ。

70分なのでラクかと思ったら、情報量のせいで体感はもっとだった。

映像も音声も、言葉の羅列で脳が疲れる。それが「洗脳」に連なっていくのだろうが。

 

(「洗脳される革命兵士」に対して)変な連想をしたのは、日本で「過労死」していく労働者のことだ。

彼らは、異常な働き方やその環境を自ら疑えず、時に周囲からの注意やアドバイスがあっても、結果その働き方から降りられず「死」を選んでいく。

脳には「余計なことを考える」スキマがないと、「自由」というものが存在し得ない。

日本の過剰労働環境というのは、労働者に「自由」のスキを与えようとしないところに特色があったのではないか。

 

閑話休題

次に、赤軍と、パレスチナの歴史的現実のことだ。

自分は最近、初めてシオニズムの歴史について読んだ。ユダヤユダヤ人の歴史、とりわけ近代史について、世界史で学んだことや、ホロコースト以外についてあまり知らないと思ったからだ。

赤軍派については、映画「実録・連合赤軍」(若松監督)、「突入せよ!あさま山荘事件」などは観たのと、また割と最近、マンガ「レッド」(山本直樹)も読んだ。

だから、空気感や多少の情報は得ている。

が、「心理的・時間的遠さ」は簡単には埋まらないし、また自ら埋めようとも思わない・その必要性もさしてない、というのが実際のところだ。

 

ただ、映画のプロパガンダの中で、現在イスラエルが遂行しているジェノサイドの背景が分かるものがあった。(だからイスラエルは「ジェノサイドではない」と認識し主張しているのだろう)

「革命兵士は、闘う生活の兵士である。彼らに都市ゲリラとゲリラ戦争の区別はない」

というものだ。

日本が日中戦争時に闘った共産党ゲリラの場合も同じだ。

ゲリラ兵やその武器が一般人民やその生活にまぎれているとしたら、その「殲滅戦」を展開するよりない、というのは軍事的現実として認識される筈だ。

(他にも、ライラ・カリド - Wikipedia

 という、当時有名になったという女性ハイジャック犯も登場して知った)

 

最近、「東アジア反日武装戦線」の桐島聡が、病死直前に自らの正体を明らかにしたというのが報じられた。

自分はその団体名や桐島の固有名詞自体はよく知らなかったが、連続企業爆破事件のことは聞いたことはあった。

また、映画「バトルロワイヤル」にも出てくる「腹腹時計」が、この団体由来だったのは、今回のことがきっかけで知った。

 

本作品には、日本赤軍指導者の重信房子も出てくる。

自分が今回のガザ危機で気づいたのは、日本メディアの意外な善戦だ。

欧米メディアが平気でイスラエル側に立っているのには慄然としたのだが、そうしたメディア状況では、必ずしもイスラエル側に立たない日本メディアは「民主主義」(?)陣営としては、決して無視できない価値を持っていると言える。

キャスターの重信メイ重信房子の娘なのは有名だが、それ以外でも、「パレスチナへの社会的・知的関心」こそ、日本赤軍が唯一日本社会に遺した、「正の遺産」ではないか、と気づいたのだ。

無論、日本も中東に石油利権があるが、それだけでこの確固たる関心の存在は説明出来ないと思う。

 

つい最近、別垢ブログに、安保法制騒動時のシールズについてのドキュメンタリーの感想を書いた。

映画「わたしの自由について〜SEALDs2015」 - seijishakaishiのブログ

 

自分は日本の「護憲派」に対し、厳しい態度を取っている。

なぜか。彼らは世界で、何一つ「結果を出してない」からだ。

紛争解決も、他国の9条輸出による軍備・戦争放棄も、何一つ、である。

それどころか、彼らは日本から出ようともせず日本が大好きだし、政府に丸がかり(「自分ではなく政府に全部やって欲しい」)という「国家主義者」なのだ。

彼らはそうしたことに無自覚であるが。

 

しかし一方で自分はまた、(日米同盟の歴史的役割自体は評価するにせよ)「反米」でもある。

要は、「観念論的平和主義」者が嫌いなのだ。

だが、だとすれば、一体「俺自身」(軍人でも、外交官や政治家でもない)に、それ以外で何ができるというのか。

それは鋭く問われねばならない。

 

自分が「日本赤軍」に対してもう一つ気付いたのは、

・「日本の戦後左翼内部の、護憲派の完全なアンチテーゼ」

であるということだ。

武装蜂起」という方法論においても、また「実際に海外で行動する」という点においても。

はっきり言えるのは、「行動した」という点で、(結果ではないにせよ)明らかに客観的な「過程」は遺しているし、発信効果も与えている。

一貫した「自慰」に終始している(引きこもり的)「護憲派」とは真反対の位置にある。

 

といって、じゃあ自分が赤軍を肯定したいか・できるかと言えばそうではない。

自分にも「戦後平和主義」の流れは当然あるからだ。

だとすれば、「自分は一体、パレスチナに何ができる?」ということなのだ。

ほざいてるだけなら、唾棄している「護憲派」の連中と何ら変わりないではないか。

「叩けば自分側が正義になる」というその振舞いすらも。

しかし、スキルも実績もある「国境なき医師団」のような存在すら、現地で活動が出来ず叩き出されてしまう。

また、「無駄死に」していい訳でもしたい訳でもない。

 

やれるとしたなら、ICJ(国際司法裁判所)のジェノサイドの判定が、本当に「適正に・公正に」行われるのだろうか、本当に「国際法」とか「国際秩序」というものがあり得るのか、ウォッチするくらいのことしか、今のところ思いつかない。

 

日本赤軍の手段は、軍事ではあるが、(「現代の日本国内に向けて」と異なり)「間違っていた」とも言い切りにくい。

(言い切っていたら、「今、自分は」何もパレスチナのことを知らないかもしれないし、パレスチナ人民に思いを致してないかもしれない)

今回のガザ危機の発端が、パレスチナが世界に埋没しゆくことへの、ハマスの絶望的蜂起だったように。

もちろん、赤軍の後に付いていったものはいないし、その必要もなかったろう。

 

しかし、「観念論的」で、世界に対して何の結果も残してない「護憲論」者に比べたなら、その行動力においても先駆性においても、「壮とすべき」なのは、どうしても赤軍のほうだという気がしてならないのだ。