creconte’s blog

映画感想多め。本・マンガ・ドラマetc.扱う予定。歴史・政治・社会・サスペンス・アングラ・官能等

ザ・サークル(2017)

エマ・ワトソン主演、趣味の悪いリアル設定のSNSディストピア映画。

キラキラした先進的なSNSザ・サークル」運営会社に入社した主人公メイは、最先端のテクノロジーによる「シーカメラ」を装着することで、「『私(private=彼女の全生活)の世界の完全共有化」という実験を行うことになる。

 

むかむかする気分を抑えがたい一方で、色々な示唆もあった。

・かつて予言されていた「監視社会」に確実に近づいている現実。

 街や家等の監視カメラ、カーナビ搭載カメラ、何より携帯のカメラ等、「いつ、どこで、無許可のうちに無防備に撮られているか分からない」恐怖。

・先進的なテクノロジー(GAFAMなど)は、なぜ巨大化とともに精細を失い、膨大なムダ機能の使いづらいインターフェイスに転落したのか。「生活の全てのプラットフォームになる」という不遜な野望を抱いていたとしたなら、その説明がつく。

・「繋がらない自由」。

 プライバシー権の一環だが、確実に「新しい人権」としての主張が強まっていくだろう。

 テクノロジーの過剰化に伴い、利用サービス(主にクラウド)に対し、「勝手に繋げるな」という管理コストや不快感への怒りと嫌悪感は強まる一方だ。

 おかしなアップデートや機能追加の度に、わざわざネットで調べたり問い合わせしたりして解除を試みる手間が増えていく。

 

「勝手に繋げる」というのは、「テクノロジーによるファシズム」なのだと気付いたからこそ、近年急速にGAFAM批判が高まったのだろう。

SNS疲れや、そうした生活からの脱却も唱えられて久しい。

一方で、「勝手に繋げる」ことによる、ネットリンチの深刻な問題は後を絶えない。

たちの悪いのは、その「私刑」が「法を飛び越える」営みであることに、皆が無自覚なことなのだ。

 

自分自身のことを言うと、「SNS依存度」自体は低いほうだと思っているが(ブログもSNSかもしれないが)、各種テクノロジーアルゴリズム自体は、登場当初から大雑把には掴んでいたので、安易に「搾取」(データ、時間、カネ等)をされないために、敢えて「アナログ」な工夫をしていた部分がある。

技術進化に伴う社会進化は止めることはできないし、抵抗自体も最終的には無意味になる。しかし、自分自身やその生活との付き合い方をどうするかは、また別問題となる。

進化が避けられないとしても、「自分を見失わない」ために、それら技術との「距離感」は見定めねばならない。

イノベーターの魅せる天才に溺れるばかりではなく、彼らの思想の陥穽を周到にウォッチすることが、ユーザーに求められることではないだろうか。

 

題名のない子守唄(2006)

(原題は「La Sconosciuta」。イタリア語「未知」の意)

衝撃のSMサスペンス。

「これは官能系だ!」といつも予め決めつけレンタルするのだが、基本外すので、どうやら見抜く才能がないらしい。笑

(「SMサスペンス」という括りも妥当とは言えないだろう)

途中、「ホラー寄りか」と思ったが、終わってみるとやはりサスペンスと見るべきだろうと思った。

 

終わってから紹介文で、イタリアが舞台と知った。

ネタバレになるので殆ど何も書けないのだが、一つだけ書き留めておこう。

主人公のウクライナ女性イレーヌは家政婦に入るのだが、そこで、防衛本能に欠ける幼児テオに、親の留守の隙に、「縛り」にかけて「攻撃」を教えるというこれまた特殊なシーンがある。それ自体もかなり衝撃的なシーンなのだが、きちんとした意味がある。

構成もかなり独特で、謎の主人公に謎のSMシーン回想が差し込まれ、ひたすら「どういう映画なんだ?どこに行くんだ?」のまま結末へと連れていかれる。

 

ピープル vs.ジョージ・ルーカス(2010)

ルーカスと、ルーカスの築いた(主にスターウォーズの)物語世界のファンダム(ファンの王国)の関係性を描いたドキュメンタリー。(以下、スターウォーズはSWと略記)

本作のことは、本に出ていて知った。

自分は、ルーカスにもSWにも特段の思い入れはない。インディ・ジョーンズも含めて、子ども時代にチラと観たぐらいで、ハマるどころか基礎知識もないレベルのニュートラル(?)さ。

観ている時は結構色んなことを考えたが、結末は「色々言ってるけど、皆憎しみも含めてルーカスと彼の作る世界が好きなんじゃん」で終わった感もある。

 

それで終わってしまってはつまらないので、まずは箇条書き式に感想を整理してみる。

観ている最中は、あまり纏まらなかったのだ。

・第一に、自分個人は、(本作に登場するSWファンのような)ヲタク的心象や行動特性はない。人が作った作品の世界観や世界線にどっぷりハマり込んで、グッズを買い込んだり、2次創作を行うなどといった習慣とは無縁。

・「ルーカスが新3部作に失敗したのか、旧3部作ファンが老害化して増長したのか」は決定不能の議論でしかない。

 旧3部作は革命的作品群だったため、当時のファンが「原理主義」者になったと見ることはできる。

 反対に、ルーカスは革命家だったが、老いては専制君主に転じたと見ることも出来る。

・日本にも現在各種ファンダムは存在するが、米国のSWレベルの規模感のものは思いつかない。

 日本では、「漫画原作のアニメ化・実写化」がある場合、「作品世界をいかに壊さず忠実に再現出来るか」に心が砕かれる場合が多い。その点では、ファンダム重視の制作姿勢が見られると言ってもいい面はあるだろう。

(今ちょうど日本では、ドラマ化をめぐってのマンガ原作者自殺というショッキングな結末で騒動になっているが、これはファンダムではなく、テレビ局vs.原作者なので構図は異なる)

 

「作品の制作過程・方法の変質」「作品が完結せずシリーズ化しており、時間がかなり経過してから新3部が作られたこと」が主な争点となり、「SWは(旧3部作)ファンのものか、ルーカスのものか?」という一大論争が勃発した訳だ。

結論は、「作品はルーカスのものだし、新3部が駄作だとしても、その論争を含めて旧来のファンはSWとルーカスを愛している」と纏めて良いだろう。

 

ルーカスの特色は、旧3部作では、ファンに、「SWは自分たちのものだ」との幻想を決定的に植え付けるのに成功したことで、そこに革命性があった。

ただ彼らの「幻想」への執着・信仰があまりに強固に成長し過ぎ、制御不可能な程まで暴走するに至った。

こうした構図に見える。

 

自分の場合、SWのファンではないので、作品の出来不出来とは別に、制作者としてビジネスマンとして、ルーカスの「自分の作品は自分で管理したい」というスタンスには(少々官僚的で面白みには欠けるものの)一貫性を感じる。

「嫌なら見なければ良いじゃん」で終わりで、入退場は自由の筈だ。

降りないのは、ファンの自主判断だ。

 

クリエイターが、老いてその創造性が枯渇したり変質する事も、珍しいことではない。

ルーカスがそうとも一概に言い切れず、ただ旧ファンが原理主義化しているとも言える。

「人が作った夢の中」に変わらず居続けるのは幸せなこと、か。

ココ・アヴァン・シャネル(2009)

ココ・シャネルの生涯を辿ったフランス映画。

フランス映画は数えるほどしか見てないが、個々人のパーソナリティや人間関係の現れ方が独特で魅力的だ。

シャネルが長ずる20世紀初頭前後は、当然女性の職業的自立などまだない。

孤児院出身のシャネルは、お針子をしていたが、ダンスホールのダンサーがきっかけとなり、金持ちの愛人となるが、その交遊関係の中で、自らのモードの才能に開眼していく。

 

シャネルはウィットの利いた尖った性格で、それ故に振りまく性的魅力がある。

彼女が最終的に、2人の男の愛を巧みに転がした上で、自由と自己実現両方を手に入れてしまうのが本作のハイライトの一つだろう。

久しぶりに恋愛の魅力、カッコよさというものを少し感じた。

モードやその歴史自体にも、大きな興味をそそられる作品だった。

 

マーガレット・サッチャー(2012)

(原題は「The Iron Lady」)

前々から気になっていた作品で、ようやくこなせた。

サッチャーは、「レーガンサッチャー、中曽根」の一角を占め、「小さな政府」を強力に推し進めた、文字通り「鉄の女」という程度の高校世界史以上の知識から進んでなかった。

(というより、見ながら、「学生時代は、歴史の中では、特に戦後ヨーロッパ史は、敢えて学ぶべきものはない、と捨象していたな」と思い出していた)

 

英国自体は、日本にとっても歴史的に関係が非常に深い国だ。

(外交上も、皇室との関係で、日本外務省では未だに駐英大使がトップに位置付けられいる)

個人的にも親近感が深く、コロナ禍勃発のちょうど前年のヨーロッパ旅行でも、僅か1泊だがロンドンに滞在した思い出がある。

そこでも「物価の高さ」は印象に残っていた。

 

本映画の構成がやや独特で面白くて、既にとっくに引退して老境で認知症がかっているサッチャーが、亡夫デニスの幻に絶えず悩まされつつも、遺品整理しつつ政治と人生を回顧する、という流れになっている。

彼女の決然と道を切り拓いていく姿と、また同時に孤独とを、メリル・ストリープが演じ切っている。

 

自分はこの映画を通じて、「現代の英国政治史」を観察していた。

おっさんたちに取り巻かれている中で、自ら道を切り拓き、11年半も首相(しかも西欧発の女性首相)の座に座ったサッチャー

 

英国は、島国という点でもよく日本と比較される。

サッチャーの個性と、彼女の推し進めた改革の流れの、共通点と相違点を、興味深く、また時に苦々しく見詰めていた。

サッチャーは、国民の反対や対立を顧みず、歳出削減、炭鉱閉鎖、税負担増などを強硬に推し進め、失業率は高まり、ローン破産者は急増し、格差は拡大した。

しかし片方で、アルゼンチンとのフォークランド紛争には勝利を収め、彼女の人気は高まり、また景気も向上することになった。

 

中曽根在世時のことは知らないが、自分にはかつての小泉首相の像に非常に重なる部分があった。

もっとも、小泉首相は改革に対する国民の圧倒的支持があった訳だが。

 

近年の英国政治は、ブレグジットの混乱で「近代民主主義の発祥国でありながら、全く民主主義の機能してない国」と、そもそも良いイメージがない。

当時、テレビでインタビューに答えていた英国有権者の女性が、「(決められない政治が)本当に恥ずかしいわ」と答えていた姿が、今でも強く記憶に刻まれている。

(今はインド系のスナク首相が誕生していて、その多様性と包容力に若干の尊敬と羨望を感じもするのだが)

また少し遡ってイラク戦争でも、「忠実な米国の同盟国」であって純然たる「米国の走狗」のイメージが染み付いている。(それも日本と同じだ。「役割」が違うだけで)

それから、ダイアナ-チャールズこの方の英国王室スキャンダル。

もっとも、皇室スキャンダルは、日本も次第に英国の後追いをしている、と見ることも出来るかもだが。笑 余談はさておき…

 

自分自身とまではいかなくとも、兄弟を見ているような、同族嫌悪と親近感とを、両方感じずにはいられない、何とも複雑な感情に支配されていた。

ロンドンの中心街のある一角を歩き、地下鉄に乗った時は、東京と全く変わらない光景に驚いた覚えもある。

 

違う国の、全然別の歴史を持ってるから、文化面も含めて、当然、相違点は挙げればいくらでも挙げられる。

が、例えば米国、あるいは独仏などと比しても、その相違点への違和感よりは、共通点や類似点に呑み込まれてしまうのだ。

これは、米国に対する感覚とはまた別個の独特のものだ。

漱石日英同盟この方、距離こそ遠けれ、あまりにも心理的に近過ぎ、既に客観的な距離を持って見られないのかもしれない。

まあこれは、こちらの一方的な接近と投影に過ぎないのだけれど。

図らずも、「英国の文化的・心理的侵蝕」を思い知らされた作品となった。

わたしは金正男を殺してない(2020)

2017年の、クアラルンプール国際空港金正男暗殺事件とその後の政治的経過、そして2人の「実行犯」の女性2人(インドネシア人シティとベトナム人ドアン)の裁判を克明に追ったドキュメンタリー。

衝撃的な事件だったが、気づけばかなり前の事件だ。その後「犯人」とか「真相」がどうだったか、などは当然頭から消えていた。

 

今北は、タイムリーに、狡猾な地震見舞いのメッセージを岸田首相に送って揺さぶりをかけてきたところだ。

そして個人的には、年初ちょうどインドネシアに旅行に行ってきたところだった(物語の主人公シティは、ジャカルタ郊外のランカスムルRancasumurの出身)。

 

金正男は、小泉政権時代、家族ぐるみで東京ディズニーランドに遊びに来て、政治事件になったことで記憶に残っていたが、それがきっかけで北の後継者レースからは外れたというから、奇縁?にも思った。

 

ドキュメンタリーはほぼ大団円の結果に見え、そうではなかった。

北朝鮮、というより金正恩パーフェクトゲームだったからだ。

マレーシア司法も腐敗していたが、それ以前に外交でも北が一枚上手だったから、その尻拭いをさせられたと見るべきだろう。

 

北朝鮮の工作活動については、拉致問題もあり、ある程度日本でも知られている筈だ。

今回の暗殺事件でも、仕込みから実行、事後処理まであまりに周到と言わざるを得ない手際で感嘆すらした。

良いように駒にされた女性たちは悲運であり気の毒としか言いようがないが、また一方で、活気あるアジアの国際的大都市クアラルンプールの「闇」に呑み込まれた面もまた否めないだろう。

(彼女たちの動員されたYouTube の「イタズラ」でも、北朝鮮人から「日本ではこういう企画がウケる」などと説明されており、北からまたも日本がダシにされていることに失笑しかなかった)

スケープゴートにされた2人に芽生えた友情には心温まるものを感じたが、また彼らの背景(出身国家の政治事情)の差異ゆえに一時的に引き裂かれた運命に悲劇も感じた。

 

暗殺に用いられたVXガスは、オウム事件でも有名になった強力な毒ガスでもある。

というより、北はそうした事件も下敷きにしてやしないかと勘繰ってしまう。

 

遠いようで非常に近い、自分(自国=日本)自身に突き付けてくる要素が多過ぎるドキュメンタリーで、ところどころ胸が締め付けられるような苦しさを感じた。

それでいて、YouTubeSNSを巧みに駆使した現代型工作活動の有り様が浮き彫りにされてもいる。

国際政治の生臭いやり取りが見える一方で、「国が国民を救う」役割をきちんと果たすのを意外に感じたのは、「自己責任切り捨て国家日本」に毒されすぎているせいだろう。笑

バトル・イン・シアトル(2007)

1999年、シアトルでの反WTOデモ・暴動を描いた意欲作。

シアトルは、個人的に直接ではないが、間接的に縁のある地で興味を持った。

これも恥ずべきだろうが、「シアトル暴動」のことは、本作で見るまで殆ど知らなかった。

 

作品そのものは、運動家たちと、市・警察治安当局との抗争を軸にして描かれる。

しかしそれ以外にも、運動と関係ないのに街中で働くゆえに巻き込まれた警官の妻、製薬メーカーの高額過ぎる薬価の問題を訴える国境なき医師団の医師、再植民地化の訴えを無視されるアフリカの参加者など、多様な視点が盛り込まれている。

 

事件から既に20年が経過している。

実際、史的経過そのものも、全然知らないことだらけなのだ。

閣僚会議は決裂(したがって反WTO運動側にとっては「勝利」の結果)に終わった。

またキャプションで差し込まれたインドの債務自殺問題も、初めて詳しく知る機会を得た。

インドを襲うマイクロファイナンスの悲劇、借金苦で貧困層の自殺多発 - Bloomberg

インドで広がる農家の債務免除 |ニッセイ基礎研究所

13億社会のいま:/中 インド農村、貧困連鎖 借金苦で自殺相次ぐ | 毎日新聞

 

 

市・治安当局の側として見ても、対応があまりに拙劣で、その後の運動やその対策から、次第に「学習」していったのだ、と推知することができる。

他にも、現地点から、様々な視点で捉え返すことが可能かつ必要だ。

 

 

途上国と開発・環境の問題に即してみるならば、その後、アフリカも含めた多くの新興国が、経済成長を遂げると同時に国際的発言力を増し、(21世紀当初より)遥かに大きな存在感を占めるに至っている。

しかし同時に多極性を増したゆえに、国際社会もまとまりにくくなり、開発と経済成長、気候変動対策との調停はハンドリングが難しくなっている。

富の集中自体は、世界では周知の事実となったものの、貧困と格差の問題に強力な歯止めがかけられる徴候は特にない。

巨大資本に対しては、地域・国単位での規制が部分部分で試みられている、といったところだろうか。

 

皮肉を言うつもりはないのだが、「より開かれた自由で民主主義的な社会」というのは、「より多くの人が『力』を目指し、それにありつくことが出来る社会」に見えてならない。

(本作で「(平和的な)反WTO運動」から「暴動」へとはみ出た人々は、「アナーキスト」と呼ばれていたが)現状はまさに(たくさんの公的な、法的な枠組みが分散しているだけの)「アナーキー」と言えないだろうか。

 

全ての人に「声を挙げる」権利があるのは事実だ。

が、それが「社会を幸せに、豊かにするのか」は別問題だということも、皆気づくようになった。

 

自分は、開発主義の立場にも、環境主義の立場にも与しない。

科学的な視座を重視するものの「科学主義」でもないし、そもそも、「人間主義」の立場に立たない。

SDGsに対する立場については、別垢で明確にしてある)

衰亡・爛熟文明社会に必要なデカダン、「SDGs」 - セルフケアと「男性」性

 

自然環境とか気候変動をめぐる争いは、「人間」とか「人間社会」にとっては重要ではあるものの、正反双方の立場は所詮「蝸牛の争い」に過ぎぬ。

人間の取れる歴史的視座=科学的視座は、所詮それほど近視眼的な切り取りしかできないからだ。

「人間は、文明滅亡前日だと知っていても、開発や収奪による繁栄を止めることは絶対に出来ない。できるのは、実際に資源や生存範囲が限られたシーンで優先順位をつけることに限る」