creconte’s blog

映画感想多め。本・マンガ・ドラマetc.扱う予定。歴史・政治・社会・サスペンス・アングラ・官能等

バトル・イン・シアトル(2007)

1999年、シアトルでの反WTOデモ・暴動を描いた意欲作。

シアトルは、個人的に直接ではないが、間接的に縁のある地で興味を持った。

これも恥ずべきだろうが、「シアトル暴動」のことは、本作で見るまで殆ど知らなかった。

 

作品そのものは、運動家たちと、市・警察治安当局との抗争を軸にして描かれる。

しかしそれ以外にも、運動と関係ないのに街中で働くゆえに巻き込まれた警官の妻、製薬メーカーの高額過ぎる薬価の問題を訴える国境なき医師団の医師、再植民地化の訴えを無視されるアフリカの参加者など、多様な視点が盛り込まれている。

 

事件から既に20年が経過している。

実際、史的経過そのものも、全然知らないことだらけなのだ。

閣僚会議は決裂(したがって反WTO運動側にとっては「勝利」の結果)に終わった。

またキャプションで差し込まれたインドの債務自殺問題も、初めて詳しく知る機会を得た。

インドを襲うマイクロファイナンスの悲劇、借金苦で貧困層の自殺多発 - Bloomberg

インドで広がる農家の債務免除 |ニッセイ基礎研究所

13億社会のいま:/中 インド農村、貧困連鎖 借金苦で自殺相次ぐ | 毎日新聞

 

 

市・治安当局の側として見ても、対応があまりに拙劣で、その後の運動やその対策から、次第に「学習」していったのだ、と推知することができる。

他にも、現地点から、様々な視点で捉え返すことが可能かつ必要だ。

 

 

途上国と開発・環境の問題に即してみるならば、その後、アフリカも含めた多くの新興国が、経済成長を遂げると同時に国際的発言力を増し、(21世紀当初より)遥かに大きな存在感を占めるに至っている。

しかし同時に多極性を増したゆえに、国際社会もまとまりにくくなり、開発と経済成長、気候変動対策との調停はハンドリングが難しくなっている。

富の集中自体は、世界では周知の事実となったものの、貧困と格差の問題に強力な歯止めがかけられる徴候は特にない。

巨大資本に対しては、地域・国単位での規制が部分部分で試みられている、といったところだろうか。

 

皮肉を言うつもりはないのだが、「より開かれた自由で民主主義的な社会」というのは、「より多くの人が『力』を目指し、それにありつくことが出来る社会」に見えてならない。

(本作で「(平和的な)反WTO運動」から「暴動」へとはみ出た人々は、「アナーキスト」と呼ばれていたが)現状はまさに(たくさんの公的な、法的な枠組みが分散しているだけの)「アナーキー」と言えないだろうか。

 

全ての人に「声を挙げる」権利があるのは事実だ。

が、それが「社会を幸せに、豊かにするのか」は別問題だということも、皆気づくようになった。

 

自分は、開発主義の立場にも、環境主義の立場にも与しない。

科学的な視座を重視するものの「科学主義」でもないし、そもそも、「人間主義」の立場に立たない。

SDGsに対する立場については、別垢で明確にしてある)

衰亡・爛熟文明社会に必要なデカダン、「SDGs」 - セルフケアと「男性」性

 

自然環境とか気候変動をめぐる争いは、「人間」とか「人間社会」にとっては重要ではあるものの、正反双方の立場は所詮「蝸牛の争い」に過ぎぬ。

人間の取れる歴史的視座=科学的視座は、所詮それほど近視眼的な切り取りしかできないからだ。

「人間は、文明滅亡前日だと知っていても、開発や収奪による繁栄を止めることは絶対に出来ない。できるのは、実際に資源や生存範囲が限られたシーンで優先順位をつけることに限る」