エマ・ワトソン主演、趣味の悪いリアル設定のSNSディストピア映画。
キラキラした先進的なSNS「ザ・サークル」運営会社に入社した主人公メイは、最先端のテクノロジーによる「シーカメラ」を装着することで、「『私(private=彼女の全生活)の世界の完全共有化」という実験を行うことになる。
むかむかする気分を抑えがたい一方で、色々な示唆もあった。
・かつて予言されていた「監視社会」に確実に近づいている現実。
街や家等の監視カメラ、カーナビ搭載カメラ、何より携帯のカメラ等、「いつ、どこで、無許可のうちに無防備に撮られているか分からない」恐怖。
・先進的なテクノロジー(GAFAMなど)は、なぜ巨大化とともに精細を失い、膨大なムダ機能の使いづらいインターフェイスに転落したのか。「生活の全てのプラットフォームになる」という不遜な野望を抱いていたとしたなら、その説明がつく。
・「繋がらない自由」。
プライバシー権の一環だが、確実に「新しい人権」としての主張が強まっていくだろう。
テクノロジーの過剰化に伴い、利用サービス(主にクラウド)に対し、「勝手に繋げるな」という管理コストや不快感への怒りと嫌悪感は強まる一方だ。
おかしなアップデートや機能追加の度に、わざわざネットで調べたり問い合わせしたりして解除を試みる手間が増えていく。
「勝手に繋げる」というのは、「テクノロジーによるファシズム」なのだと気付いたからこそ、近年急速にGAFAM批判が高まったのだろう。
SNS疲れや、そうした生活からの脱却も唱えられて久しい。
一方で、「勝手に繋げる」ことによる、ネットリンチの深刻な問題は後を絶えない。
たちの悪いのは、その「私刑」が「法を飛び越える」営みであることに、皆が無自覚なことなのだ。
自分自身のことを言うと、「SNS依存度」自体は低いほうだと思っているが(ブログもSNSかもしれないが)、各種テクノロジーのアルゴリズム自体は、登場当初から大雑把には掴んでいたので、安易に「搾取」(データ、時間、カネ等)をされないために、敢えて「アナログ」な工夫をしていた部分がある。
技術進化に伴う社会進化は止めることはできないし、抵抗自体も最終的には無意味になる。しかし、自分自身やその生活との付き合い方をどうするかは、また別問題となる。
進化が避けられないとしても、「自分を見失わない」ために、それら技術との「距離感」は見定めねばならない。
イノベーターの魅せる天才に溺れるばかりではなく、彼らの思想の陥穽を周到にウォッチすることが、ユーザーに求められることではないだろうか。