前回の記事を書いていて、たまたま触れた「仁義なき戦い」のことを思い出した。
自分の中で最近起きた、「山守親分」観の変化について書いてみたい。
小林秀雄が芥川龍之介「乃木将軍」について書いた文章で、「若い時は大変感銘を受けたのを覚えているが、歳がいってから読んでみると、どこが面白いのか、当時何が面白いと思ったのかすら思い出せなくなった」と書いていて、非常に面白かったことがある。
強いて言うなら、それに近い感覚だろうか?笑
「仁義なき戦い」シリーズは大好きで、学生時代から何度繰返し観たか分からないほどだ。
映画全体として無論好きなわけだが、菅原文太や松方弘樹、小林旭など往年の俳優がカッコよすぎて一種の「イケメンパラダイス」的愉しみの強さも否めないところだ。w
学生時代辺りだと、山守親分(金子信雄)の喰えない狡いふるまいややり口が憎くてならなかったのが、次第に今ではその老獪さや狡猾さ、(知的とは言い難いが)マキャベリスティックなスタンスが少しわかるようになった。
山守は、トップとかリーダーとかの素質のある者ではなく、基本的には自己利益のみしか頭にないが、最終的には組をバラバラにせずに泳ぎ切るのに成功している。
(その視点では、主人公広能は基本的には広島ヤクザ界では政治的敗者・非主流者になる)
山守は保身に長けているだけに、日ごろは威勢のいいことを言っている若者たちの保身的性格も理解しており、それ故にこそ巧妙な支配が可能になったのだ。
「イケイケ」ではむしろ生き残れない、ということを的確に見通していたのは山守の側だったのではないか。
もう一つ、少し逸れるが、「仁義なき戦い」シリーズは、「儒教道徳のウソ(または正体)」を教えてくれたこともあった。
「広島死闘編」では、若者が死んだ葬儀の時に、組長たちが「組に迷惑かけないで死んだ、親孝行なやっちゃ」などと悼んで(?)いた。
「ああ、『孝行』とか『忠孝』とかってこういう使われ方をするものなのね」と。
組=家が生き残る・生き延びるための捨て石として、若者の命(タマ)が犠牲にされる。
これも大好きな半グレマンガ「HEAT」の中で、「意地?そんなものは若い奴らを踊らせるための方便だろ」と切り捨てるシーンがある。
ヤクザにも半グレにも、守るべき「筋」や「仁義」があり、そこに命を賭ける姿の描写にこそ、大衆の熱狂がある。
だが、冷徹な親分というのは、生き残るために、それらのヤクザの重んじる概念を、冷ややかに、客観的に眺めているものではなかろうか。