creconte’s blog

映画感想多め。本・マンガ・ドラマetc.扱う予定。歴史・政治・社会・サスペンス・アングラ・官能等

レッド・スパロー(2018)

将来を嘱望されたバレリーナドミニカが、陥れられた怪我の負い目を契機に、叔父の手引きでロシア情報機関の女スパイとして歩んでいく。

「真」と「偽」がかようにグルグルと分からなくなっていく体験は珍しい。

が、ロシアという諜報国家、今では「フェイクニュース」の量産国家の一端を巧く描き出してる面もあるのでは、とも感じた。

 

ドミニカの叔父は、スパイ養成学校での従順さより、自分同様の「本質を見抜く能力」を、ドミニカに見出した。

ドミニカが守りたいのは、「母との生活」だ。

そこからブレない・揺るがない「強さ」があるから、彼女自身が中心となり「真実」を「創り出す」力がある。

 

こんな言い方はしたくはないが、「事実」というものは無力で、「力の真実」の前に淘汰されていくものだ。

それこそが「選別」、(「適者生存」ではなく)まさに「弱肉強食」の「生命の力の真理」を表している気がしてならない。

「事実」と「力の真実」の闘争は、人間特有の競争の有り様と言える。

 

最初は、スパイ養成学校(「娼婦養成所」とドミニカは語った)でのハニトラの仕掛け方に、「性的欲望」のいわば「唯物」的な取り扱い方をレクチャーしている部分に惹かれたのだが、最後まで観ると、どうもそれらはテクニカルな問題に過ぎないのでは、と感じるようになったのは不思議だ。

(また、そこでは、人気マンガの「ファブル」で、女暗殺者はハニトラでセックストレーニングを受ける、という一節を想起した)

 

また、同じく「闇金ウシジマくん」の中でも、ヤクザの滑皮の「女は信用できない」というセリフや、ドミニカ母が「叔父さんに支配されてはダメよ」という助言に、映画「仁義なき戦い」で、山守親分の女将が、広能の女に「弾除けにされてないか」と耳打ちするシーンを思い出したりした。

男にも特有の卑怯さがあるのと同様に、女が卑怯だとも当然思わない。

男と女とでは、生存戦略の有り様が違うし、「筋」の通し方、そこでの「真実」の有り様も異なってくる。そこには、当然セックスが絡んでくるし、「真偽」を狂わせる手立てにも用いられる。

「真か偽か?」は倫理観の議論というのは甘ったれの幻想に過ぎぬ。それは「力のゲーム」だ。その「真実」をこそ遺憾無く描いた作品だった。