(部分的ネタバレ注意?)
公開中映画の感想としては第二弾。
「昭和文学史上最大の恋愛事件」とされた、長谷川泰子と、中原中也・小林秀雄の三角関係を描いた作品。
「どうしても見たい」と思い、足を運んでしまった。
映画のマイナータイトルは、公開期間が瞬殺なので、「思い立ったその日に」行動しないと、永久にその機会は失われる、ということをようやく身に染みて覚えたのである。
結論から言うと、「映画としては良いが、内容自体は安っちい三文恋愛映画」ということに過ぎない。
「映画としては良い」というのは、映画としての面白さと、こだわった映像の美しさや時代背景ということに他ならない。
もっと観客は少ないかと思ったら、自分が思うよりは来ていた(多くはない)のは意外だったが。
基本的には「どうでも良い」で終わってしまうのは、中原中也という詩人への下らなさ・無関心から来ている。
自分は小林秀雄からは絶大な影響を受けた一方、中原の詩には特段感心しなかったためだ。
本作でも微かに出てくる、富永太郎には少し感心した覚えがあるが。
単純に、この手の映画を「単に嫌悪感のみ」で切り捨てず、自ら観に来れたこと自体を、「自らの進歩」と自画自賛したいに過ぎない。笑
もっと小林秀雄について色々考えるか?と思ったがそれもそこまででもなかった。
「プライベートな(正確には女性面に関する?)小林」に興味をあまり持たなかった、ということだろうか?
そう言われると、恩師辰野隆に金の無心に行くシーンで、辰野が小林に「君に生活があるのか?」と問うたことが妙に印象に遺った。
後に「超一流の生活者」と言われる小林秀雄に対して、である。
「プライベートな小林秀雄に興味がない」というのは、自分で書いてみても矛盾しているとわかる。
が、女性問題に関する記述は、確かに彼の作品にはあまり顔を出してこない。
小林の、中原への追悼詩では、それへの悔恨が示唆されていたことは覚えがあるのだが。
「三文恋愛映画」と断じたのだが、「長谷川泰子が、中原と小林に両依存」していたということ、それを小林が「シベリア流刑のように終わりのない関係」と評していたのが少々面白かった。が、それ故に「三文恋愛映画」でしかない、ということに他ならない。
それより思い返したのは、小林が老年の対談で、「色んなことがあったが、詰らんことだった」という言葉だった。
この恋愛事件も、内実を見れば「言うほどの事件か?」でしかない。
小林秀雄には、(出世作ランボー「地獄の季節」翻訳で知られる)「詩人としての顔」もあった。
中原とか中原の交友というのは、小林の青春時代のプライベートと限界性を「両方」浮き彫りにさせた存在だったのではないか。
でもそれだけのこと、という見方も出来る。
即ち、小林は、それらは単に「詰らんこと」で糧にして回収してしまった、という見方も可能だろう。冷酷な見方かもしれないが。
「(若い時分の)詩における中原」の存在は、小林秀雄には、「骨董における青山二郎」とちょうど比定出来るのでは、と感じたのである。
この作品は泰子が主人公だが、中原同様、泰子にも別段の関心は特に湧かない。
「超一流の生活者の退屈」というものを感じる作品だった。